新たに

今日、すんげぇ雪降ってる。

 

 

 

 

今年は50数年ぶりの大寒波らしく、先々週ごろまで−27℃前後の日が続いたりしていた。

 

−27℃と突然言われても、日本にいると想像しがたいかもしれない。

こちらでは皆けっこう実温度と体感温度を両方チェックしていて、例えば実際の温度が-27℃であっても体感温度は−36℃だったりするので、それに合わせて服装を調整する。体感温度は風の強さも考慮した温度らしい。風が強い日は体感温度も一気に下がる。 

 

そんな気候の中を歩いていると、鼻の中の水分が凍って膜を張ったようになったり、まつ毛が凍ったりする。手袋を忘れた日には「そのうち腐って切断しなきゃいけなくなるよ!」と言われたりもした。耳や顔の露出部分は冷たい、痛いを通り越すと感覚が麻痺してくる。脚が固まって動かなくなったこともあった。こんなに寒いのに路上で生活している人が大勢いて、冬の終わりに亡くなったホームレスの数が放送されると非常に心が痛む。

 

 

東京に住む弟たちからは、大雪の写真が送られてきた。今年はあちこちで寒波が到来した模様。仕事で人生初の雪かきを頼まれたという弟(南国育ち)は少々浮かれていた。

 

今年の10月に、弟たちがカナダへ旅行へ来ることが決まった。1番下の弟にはもう3年半以上会っていないんじゃないかな。最後に会った時はまだ高校生だった。総体の決勝を見に行ったのを覚えている。もうお酒が飲めると聞いて驚いた。夫ともようやく会わせられる。楽しみだ。

 

 

 

さて。

前年の末に振り返り記事を書いた。

今年は今年でまた新たな目標を決め、動き始めている。

 

その一つに「デザインに挑戦する」というのがあって、1月初めに基本のキを学ぶために何冊か本を注文した。何が美しいデザインで何がそうでないのか。誰が見ても「なんだか惹かれる」デザインは何が違うのか。というかデザインってそもそも何?どんな種類がある?。。。云々。

 

そう、完全にゼロからのスタートである。

 

昨日夫が「店の新商品のポスターを作って貼りたいけどやることが多くて手が回らない」と嘆いていた。わたしは「そんなことなら任せておけ」と張り切ってポスターを作り始めた。ここ一カ月ちょっとで勉強したことを実践するチャンスが急にやってきて心が躍ったのだ。ひょいと引き受けた。

 

深夜2時半、できあがったポスターを見て絶句した。

 

「ダサい」

 

・・・・・。

完成から秒数が増すごとに、眺めれば眺めるほどに、そのダサさが浮き上がって見える。なんか、COOLじゃない。撃沈した。雀の涙ほどとは言え、勉強したことを詰め込んでみたはずなのに。疲れたので寝てしまおうと布団に入ってからも、なんでダサいのか、原因をずっと考えていた。

 

言わずもがな、現在この失敗はわたしのなかで既に100%ポジティブなものに変換されている。完成直後こそ撃沈したけど。

今までだったら自分の作ったチラシのどこがダサいかなんて原因をいくら考えても分からなかっただろうし、そもそもダサいとも思わなかったかもしれない。教員時代に仕事で図書館のニュースレターを毎月出していたが、レイアウトを自分でも気に入っていたし、生徒が黒板に集まって読んでくれるのが嬉しいと思っていた。今あのニュースレターを思い出すと、装飾がごちゃごちゃして読みにくいし行はバラバラだし各号に一貫性はないし・・・といろいろ文句をつけたくなる。あの時には見えなかったものが今は少しだけ見え始めている。

 

布団に入ってから、「整列が悪かったのかな、いやコントラストが弱すぎ?フォントの組み合わせかな。そもそも写真はあれじゃいかんだろ!」と頭の中は大嵐だった。ふと我に返って、なんだ、わたし失敗したけどちゃんと前に進んでるじゃん。と。大嵐のあと、ゆっくりいろいろ考えていたら次のステップが少しずつ見えてきた。これをやりたいけどやり方が分からないから調べよう。もっと既存の美しい作品をたくさん見て自分の引き出しを増やそう。とか。未知の分野を自分の意思で掘り下げていく作業は、楽しい。自分にそれができるかどうか、ということはやってみるまで分からんので「あ、これ楽しそう」という自身の直感に従い、とにかく何にでも挑んでみようと思う。

 

 

 

デザインの勉強とは別に先月から始めているのが、

「毎週最低2か所、トロントの新しいカフェを発掘する」というもの。

ゆくゆくの目標は

「ローカルなカフェを紹介するマップを自分でデザインして配布する」

ことなのでデザインとも最終的に絡んでくるんだけど。

今はその準備段階としてトロントのいろんなカフェに行きまくっている。

 

トロントは本当にカフェの多い街で、コーヒー文化が根付いているなあと感じざるを得ない。モルティ・カルチャー故、コーヒーのスタイルも多彩。

ちなみにわたしは、マップを作ろうとしているわりにコーヒーの味に疎い。というかブラックコーヒー飲めない。いつもラテに砂糖を入れて飲んでいる。じゃあなんでそんなにカフェに行くのかというと、そこにいる人たちや空間そのものが好きだから。ホットコーヒーと焼き立てのベーグルが混ざった匂いや、いろんな人種、文化、ジェンダー、年齢の人達が自由に午後のお喋りを楽しんでいるその光景が好き。インテリアや照明、メニューの提示の仕方などがお店によって全然違うのも楽しい。コーヒーだけではなく、様々な種類のteaを試せるお店も多々ある。tea latteなんていう、日本にいる時は馴染みのなかったものも今ではすっかりお気に入りだ。

 

 

先日、家から一時間以上かけて行ったスモークサーモン・ベーグルのお店で食べた「The Fancy Fancy」という名前のベーグルが死ぬほど美味かった。吹雪いていて平日だったせいか、客はわたし一人。店員の女の子に「ここ、サーモンのベーグルが美味しいって聞いて来たんだけど」と言うと丁寧にメニューを説明してくれた。名の通りファンシーな一番具の多いベーグルを頼むことに。

 

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  これ、けっこうなボリューム。クリームチーズとスモークサーモンという王道の組み合わせに、細くて小さいもやし(アルファルファ・スプラウトというらしい)、ビーツを酢漬けしたもの、きゅうり、 ケーパー、ディルなどの野菜ががぎっしりぱんぱんに詰まっている。この組み合わせが絶妙で美味い。そういえばカナダはサーモンが有名なのです。かつてサーモンと言えば焼くか刺身かの二択だった。スモークサーモン最高。そして日本(西)よりチーズが美味い。ちなみに他のお店でもだいたいそうだけど、ベーグルの種類も選べる。上に胡麻、ポピーの種や麦などの穀物類をカスタマイズしてちらしたりもできる。

 

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 縦に長い店内に並ぶ小さいテーブルには、サボテンの鉢がそれぞれ置いてある。奥の席に腰かけて「あ~幸せだ」と脳内で叫びながらベーグルにかぶりつく。帰りに店員の女の子と少しお喋りした。「平日のこの時間は静かな時もあるけど、週末はすごいのよ」と言っていた。遠いけどまた絶対来るから!と意気込むわたしを「いつでもウェルカムよ!」と笑顔で送り出してくれた。

 

 

 

寒いけど、充実している。寒いけど。

 

 

 

 

 

 

いよいよ3月から2人で引っ越すことになった。今、ダウンタウンにできるだけ近くて手ごろな部屋がないか各ウェブサイトを毎日夫婦でサーフィンしている。 

それもこれも、以前から勃発していたちいさな家庭内紛争が今月初めついに史上最悪であろう大戦争へと発展し、「もう待てない」と確信したからだった。いろいろな問題は置いておいて、とにかく速攻出ると決めた。夫も同意してくれた。喧嘩の主たちは、その日完全に頭がおかしくなっていて、その光景を見た時わたしは「おねがいだから精神科へ」とほぼ祈るような気持ちで見ていた。日々流れてくるどす黒い煙を無意味に吸い続けるのはもうごめんだ。わたしの人生まで破壊される前にとっととここを出なければ。

 

この状況なので、わたしは過剰に「自分を守り、スペースを保ち続けること」を意識せざるを得ない。「自分が自分であり続けること」をこんなに困難に感じたことはない。ひとりひとりの価値が尊重されてきたわたしの家族の方が稀で、とんでもなくラッキーだっただけなのかと思う時さえある。間違いなく普通ではない環境だと認知していても、わたしは大丈夫だからと信じていても、心は確実に蝕まれる。蝕まれないように、と逆らうことに莫大なエネルギーを使う。こんなのほんとうに無駄だと思う。

 

でもわたしには救いがあった。夫が一番の理解者であろうと努力してくれること。日本にいる家族がわたしのことを大切に思ってくれていて、いつでも支援すると言ってくれること。それからわたし自身が、自分ならなんとかなるという根拠のない自信を持てるタイプの人間であること。こういうことを見逃さないで、きちんと感謝する。あとはとにかく自分のやりたいことにフォーカスして他人のことは放っておく。

 

ここ数年でメンタルがだいぶ鍛えられております。もう一回りマッチョになろう。

 

 

夢の新婚生活(ついに)。あと、永住権ももうそろそろなので働けるようになります。嬉しい。

わたしがようやく本当の意味で自分の人生に集中するタイミングが来たな、今年だなと思う。やっとステージにのぼれた。いきます。

 

 

 

あ、それ才能です。

他人の言動に対して苛々したり、もどかしさを覚えたり、「なんで?」と疑問に思ったりすることって誰にでもあると思う。

 

 

例えば、すぐ道に迷う人。知らない土地で、旅行先で、というわけでもないのにとにかくいつも迷っている人。住んでいる街の中、なんなら何度も来たことがあるはずのショッピングモールの中でも迷う。迷って待ち合わせ時間に遅れてきたり、違う場所に行ってしまったりする。

 

こういう人たちは、地図が読める人や空間認知能力に長けている人からすれば理解不能である。なぜ毎度迷うのか、分からない。ここ、この前来たよね?この街住んで何年目?いや、さっき来た道引き返すだけじゃん!!

・・・・・・・・・・

 

 

「難なく目的地に辿り着けてしまう人たち」には、すぐ道に迷ってしまうの人の気持ちがよく分からない。そんな人を見ると「あ~もう!」と心の中で叫んでしまう。なぜなら彼らにとってそれは当たり前で自然にできてしまうことだからだ。

 

 

 

 

 

 

先日たまたま読んだ記事にこんなことが書いてあった。

 

  • 「他人に対してもどかしさを感じる瞬間」にこそ、自分の才能を知るヒントがある。
  • 「あなたが無意識に出来てしまっていること」=あなたの「才能」である。
  •  あまりにも自然に出来てしまうから、自分にとっては当たり前でそれが才 能だと気づかないことが多い。 

 

 

なるほどな~と思い、自分の場合について少し掘り下げて考えてみた。

 

補足:「才能」という言葉を聞いて「プロ野球選手を目指せるような投球スキル」とか「画家として食べていけるような芸術のセンス」なんかを思い浮かべる人もいるかもしれない。だけどわたしは「才能」は直接的にそのスキルが職業に生きてくるもののみを指すわけではないと思っている。人はいろんな種類の「得意なこと」をたくさん持っていて、それらを磨いて組み合わせることで自分のオリジナルな価値を世界に与えられるのかなと思う。だから「愛嬌がいい」も「掃除が得意」も「ワインの味に詳しい」もぜんぶ立派な才能。そういうニュアンスの「才能」で読んでいただければ幸い。

 

「わたしはどんな時に他人に対してもどかしさを感じるのか?」

以下。

 

・人が何を言いたいのか、何をして欲しいのか察することができない人

 ・他人の興味深い話を聞いても「でもわたしはこうだから」と開き直って吸収しようとしない人 

 ・文章がありきたりであまり感動が伝えられていない人

  例: この前行ったカフェがめっちゃ可愛くて超やばかった〜!癒された♡(SNSなどでよくみる) 

 ・怒りをコントロールできない人 

 ・物が散乱した部屋に平然といられる人

 ・何度同じ曲を聴いても音程が取れない人

 ・人が集まる場所で、携帯ばかり気にして人と積極的に関わろうとしない人

 

etc....

 

こういう人たちが善い悪いという話ではなくて、ただ「自分はこう感じている」ということを客観的に知ることで、自分の隠れた才能に気づけるというのがここでのポイント。

 

 

 

このもどかしポイントたちをわたしの長所、才能として書き換えてみると。。。

 

・人の言動を観察して気持ちを汲み取り、その人に合ったアプローチができる。

 ・他人の話を素直に聞いて、新しい知識やその人の良いところを吸収できる。

 ・どうしたら伝わるか?を考えながら文章を書くことができる

 ・自分を穏やかに保つ方法を知っている。物事を冷静に論理的に捉えられる。

 ・人や自分が気持ちよく過ごせる空間になるように整頓したりレイアウトを工夫したりできる。

 ・人の声や音を聞いて記憶し再現する能力がある。

 ・コミュニケーション能力が高い。

 

 

という感じになるか。

今まで人生で幾度となく「あなたの長所はなんですか」と聞かれていろいろ答えてきた。けれど面白いのは、それとは全然違うことがけっこう交じっている。これを書き出してみて初めて「これ才能だったのか・・・」と知ったものもあった。自分が「がんばらなくても当たり前にできること」「自然にできること」に人はわざわざ注目しない。でも、それが自然にできない人も世の中にはいるのだ。それはその人が自分より劣っているからではなくて、たまたま得意な分野が違うだけ。

この「もどかしさを感じるポイント」とは人によってかなり違うと思う。だからわたしのリストを見てピンとこなくてもそれが普通です。一回やってみてほしい。いろいろ発見があるよ。

 

 

ちなみに最初の例の「道にすぐ迷う人」というのはわたしである。

言われた場所と違う場所に行ってしまって待ち合わせに3時間遅れたこともあるし、コンビニに入って出る時にはどこから来たのか分からなくなったりする。今はずいぶん便利になってGoogle Map等で事前に道順を調べて行くなどの努力はするものの、やはり「どこにいても難なく目的地に辿り着ける」という境地にはほど遠い。

わたしは「誰かが道に迷う」ことに対してイライラしたり「も~!」となったりはしない。だってわたしもできないし。多分、「すぐ道に迷う人にいらいらする!」って人は、自分は何も考えなくてもできてしまうから理解できなくていらいらするんだと思う。それ、あなたの「才能」ですよ、ということ。いやあわたしもその才能欲しいっす。

 

 

この記事でいいな、と思ったのは

 

1.自分の意識してなかった才能を発見できる。

 

というのとさらにもう一つ、

 

2.「イライラ」「もどかしさ」「理解できない不快感」というネガティブな感情が出てきた時に「あ。今、も~!(怒)ってなってるってことは、これはわたしの才能なんだ。」とポジティブな事実に変換してしまえるということ。

「これはわたしの才能で、この人にはたまたまそれがないだけなんだな」と相手を受け入れられるし、そうすると「あなたが苦手ならわたしが補って助けてあげよう」という行動にもつながり得る。

 

違う言い方をすれば、才能は「役割」かもしれない。みんなそれぞれ得意分野があって、分業してるだけなのだ。100人の村で100人とも狩りが得意でも、誰も調理の仕方を知らなかったらみんな飢え死にする。そこに優劣はなくて、全員得意分野が違うからこそ世界は成り立っている。

 

もちろん、苦手なことを少しでもできるようにしようとする努力は時に必要。それによって自分が生きやすくなるならば。

けれども。例えばですよ。わたしが今からエンジニアになるために嫌いで苦手な物理や電気や機械について多大な労力を費やして勉強すれば人並みくらいにはなるかもしれない。でももともとそれが好きで得意な人たちは、わたしの10倍の速度で学び、そこからさらに技を磨く。嫌々学んだ人並みのわたしと、情熱を持って技を磨いた彼らが世に与えられる価値の大きさは言うまでもない。

 

自分の得意なこと=才能を磨くプロセスはやっていて楽しい。楽しいから努力も自然とできるし、だから成長速度が何倍にもなる。人の幸福感は「誰かの役に立っている」と自ら実感することで生まれるから、自分の才能(役割)を見つけて磨き、それを世界に還元することが結局は自分の幸せに繫がる。

 

わたしは今回自分の新たな才能をたくさん見つけ、認識できた。見つけたからには磨かねばならぬ。

 

「これらをどう伸ばし、どういう形で人に与えるのがベストか?」

 

 

・・・・考え始めたら目が冴えてきた。

最近の悩みは夫のいびきがうるさくて眠れないこと。ここ数カ月仕事が忙しくて疲れているらしい。今もやっぱりゴーゴー言っている。この悩みを彼の親友に打ち明けたら、「That's life.」(人生そんなもんよ)と言われた。そういえば奴もいびきひどいんだった。聞く相手を間違えた。

 

 

風の音が聞こえる。

窓の外を見ると、さっきの吹雪であたり一面真っ白になっている。砂糖のように表面のあちこちがキラキラ光っていてなんともきれい。

明日もいい日であれ。

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大晦日inトロント。2017年を振り返ってみる。

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年の瀬ですね。

 

2017年ももうすぐ終わる(カナダ時間)。

何だか本当にいろいろあった年で、今頭の中をいろんなものが駆け巡ってる。

しいて一言で言うならば2017年は「自分ととことん向き合った年」。今まで生きてきておそらく一番悩んだ。3年前に初めてカナダへ来てから、人との出会いや経験によって毎年自分の考え方や価値観はアップデートされているのだけど、今年はちょっとこれまでとは違う成長の仕方をしたな、と思う。

 

 

バランスを意識した年

カナダへ留学してきてから今年の初めまでの2年間は、アウトプット(自分の内側を表現、発信するための能動的な行動)をひたすらやってきた。学校でも職場でもプライベートでもとにかく英語を喋りまくり、休みの日も人に会う機会があればどんどん出向いた。現在の夫と付き合いだしてからは彼の言うフレーズを真似して使ってみたり、発音やリズムを練習してカナディアンたちの集まりで通じるか試してみたりしていた。ほんとうにこの2年間はいろんな人に会ってたくさんコミュニケーションを取っていた。「自分を表現すること」の楽しさを知れた大切な時間だったな、と今は思う。 

 

今年は、特に後半かな、インプット(アウトプットの基になる知識や技術、教養などを蓄えること)をかなり楽しんだ。目まぐるしいアウトプット期間を経てほぼ忘れかけていたけど、何の分野においても成長にインプットは不可欠。バランスが大事。家やカフェで勉強したり本を読んだり、人の書いたものをインターネット上で読んで違う価値観に触れたりする時間がけっこうあった。この1年でバランスのとり方がちょっとずつ分かってきた。よかったなと思う。

 

2017年に行ったアウトプット作業

  • 写真用のホームページ、Instagramを開設
  • このブログを始める
  • 春~夏にポートレートセッションを実施
  • 本やインターネットで学んだことを文章や図にまとめる
  • 日本語学校でのボランティア
  • 留学エージェントのアシスタント

2017年に行ったインプット作業

  • 本を読みまくる(未知の分野の本を納得するまで何度も読み返して落とし込む作業をけっこうした。そう言えば小説一冊も読んでない。)
  • 写真・カメラの基礎知識、撮影技術、編集方法の勉強
  • 写真に関する記事を英語で読む
  • 人の書いたブログや記事を定期的に読む
  • インテリアデザインの勉強
  • 国内外の写真家、アーティストの作品に触れる

 

何をそんなにインプットしていたのかと言うと、一つは写真関係。これは実践と同時進行で勉強し、身に付けたことがたくさんある。春夏のポートレートセッション中にうまくいかなかったことや実践で疑問に思ったことなどを書き出して「プロはどうやっているのか」を調べたり、編集・修正のスキルを本やインターネットで調べながら学んだりした。あとは既存のアーティストたちの作品を見たり、自分の嗜好を知るために好きな写真や絵、デザインなどをスケッチブックに貼り付けたりもした。

もう一つはざっくり言うと「生き方」の模索。「自分はどうやって生きたいのか」を真剣に考えた年だったから、わたしが思う魅力的な人たちの「生き方」を吸収できる本や記事、ブログ等をたくさん読んだ。読む→咀嚼する→自分に置き換えて考える→実際に行動してみるというのをひたすら繰り返した。この模索期間に得たものはほんとうに大きかった。とても充実していた。

 

今はインプット期間を経てまた「行動したい欲」の波が来ている。学んだことを試したい。なんだか自分で自分を実験してるような感じ。ちょっと変態っぽいな。。 行動する時って勇気がいるけど、でもやっぱり今よりよくなりたいから。来年はもっと自分にむちゃぶりしまくろうと思う。この2つのバランスの取り方についても、付き合っていきながら自分に合うやり方を見つけたい。

 

 

 

小さな挑戦の年

今年はいろんなことに挑戦した年だった。

変わったというか、その傾向が一層強まったなというのが、何かを始めるときに「やったら楽しそう」「なんだか分からないけど興味がわく」という自分の直感や気持ちに沿ってやるかどうか決めるということ。これまでの自分の傾向とか、経験上実現出来そうだな~ということを無意識に選んで行動していた頃が昔はあった。高校の時とか。今のところ国語しか得意なものないし国語の先生になるしかないか、みたいな思考だった。「やってみるまで楽しいか、うまく出来るかどうかなんて分からない」んだし、とりやえず何でもやってみよ、ぐらいの気持ちでいろいろやる方が楽しいなと思う。

 

2017年にした小さな挑戦

  • ポートレートセッション with トロントの大学生(4月~7月)
  • ポートレート作品作り(2日間)
  • 式典での集合写真撮影
  • エンゲイジメント・フォト撮影
  • デザイナー作品の物撮り
  • 現像、Photoshop
  • 日本語の宿題の添削
  • Website作成
  • フィルムカメラ
  • 世界のサラダ作り
  • インテリアデザインの勉強
  • ジムに通う、スクワットチャレンジ
  • 洋画やドラマをを英語字幕でたくさん観る
  • マインドフルネス、ヨガ
  • 結婚式の余興(初)

 

こんな感じかな。好きなことやできることが毎年増えていくのはやっぱり嬉しいな。もうすでに2018年にやりたい!と思っていることが山ほどあるので、それはまた追って書くとする。

 

 

 

「家族」について考えた年

これはかなり大きなテーマだった気がする。結婚後、2016年秋に再びカナダに戻ってきてから夫の家族と一緒に住んでいる。わたしが戻った時点ですでに義理父の癌はかなり進行しており、無念にも今年の春に亡くなった。それまでは毎日病院と寺を行き来し、彼のために尽力する家族に寄り添った。 

 

今年は「家族の在り方」はこんなにも違うのかと気づき、悩み、考えた年だった。夫の両親は国籍や文化はもちろん、考え方や価値を置くものがわたしの家族とは全く違う。「自分の幸福を犠牲にしてでも家族を守る」とか、「恨みつらみはあれど血がつながっている以上関係を継続するし助け合う努力をする」とか。わたしにとっては決してそうではないものが、彼らにとっては真実であり正義であったりする。頻繁に怒鳴りあったり傷つけあったりしているのに、次の日には「家族が一番」「家族を愛している」と言ったりしている彼らにどうしても賛同できず、困惑し、一人苦しむこともあった。

だいぶ前に、夫と私の父がお酒を酌み交わしながら「家族」についてちょっとした討論になったことがあった。「自分がいよいよ死ぬ、となった時に子どもに何をしてほしいか」ということについて、わたしの父は「自分の子には、世界のどこかで幸せにがんばっていてほしい。わざわざそれを投げ出してまで来てもらわなくても構わない」と言った。夫は「それは違う。家族が大変な時にはみんな一緒にいるべきだ」と言う。結局最後までかみ合わなかったので私がとりあえずその場は終了させた。

 

わたしが父のこの意見を聞いたのは初めてだったけれど、わたしもどちらかと言えば父に同感だった。家族と言えど個人は尊重されるべきだし、そこで会いに行くか行かないかは子どもの自由であり義務ではないと思う。けれどこうして今年夫の家族と向き合いながら感じたことは、「家族の在り方」に正解も不正解もないということ。彼らの信念は、彼らが一生懸命生きてきた過程で創造してきたものだ。「違うことは当たり前」なのだ。彼の家族を見つめることによって、わたし自身の家族の在り方やそれが今のわたしの価値観にどういう影響を与えているのかということを客観的に見ることができた。そして将来わたしが自分の家族を持つことになった時、どんな風に家庭を築いていきたいか考えるきっかけとなった。

 

違う価値観を受け入れるというのは相当難しい。今年はそれで何度も苦しい思いをしたけれど、それでも少しずつ前には進んでいる。おそらくこれは一生向き合っていくテーマだからこれからもきっとたくさん悩むんだろうけれど、周りを見渡して視野を広げながら少しずつ自分の信念を築いていけたらいいな、と思う。

 

 

 

質問まみれの年

今年は自分自身にいろんな問いを投げかけ続けた。冒頭にも書いたようにとことん自分と向き合った年だったと思う。自分自身を知ることの重大さを知った。先人の生き方を観察し、自分を分析し、とにかく質問攻めにした。また変態になっている。いやでもほんとうに、ほんとうに大事なこと。

「わたしはほんとうは何をしたいのか?」「なぜ今もやもやしているのか」

「これができない原因は何?」「わたしが大切にしたいものは何?」

「わたしは何をしたらときめき、感動するのか?」

「どうしたらもっと楽しくなるか?」

・・・

自分への質問も然り、人と話すときも、意識していろいろ質問した気がする。自分が知らないことや吸収したいと思うことをたくさん知っている相手には怖がらずにどんどん聞く努力をした。その答えを持ち帰ってもう一度深く考えてみたり、自分自身と照らし合わせたりした。

 

わたしはよく人から相談を受けるのだけど、自分で何を喋っているのか分からなくなる人とか、問題のまわりをぐるぐる回っていてなかなか抜け出せない人などの場合は「この人は本当は何に悩んでいるのかな?最終的にはどうしたいのかな?」「どんな質問をすれば問題に自分で気づけるかな?」ということを考えながら、気をつけて喋った。心理学者かカウンセラーになったような気持ちで。今年はさらに上空から客観的にものごとを観察する能力がついた気がする。

主観を取り除いて人を客観的に見ることができると、自分のことも遠くから眺められるようになる。まあ自分のことを客観的に見るのは何倍も難しいんだけれど。そうやって気づいたことをノートに書き起こしたのもよかったな。

 

質問し続けてよかったことは

  • 普段無意識に考えていることに気づいてネガティブな思い込みを払拭できたこと
  • 感情に素直に従って行動できるようになったこと
  • 自分が幸せかどうかという基準で言動を決められるようになったこと
  • 「これからどうしたいか」を明確にできたこと
  • 難しいことでも楽しくやる方法を工夫できるようになったこと
  • 言葉にできないモヤモヤやいらいらの原因を突き止めて対処できるようになったこと

 

 

 こんな感じでしょうか。

・・・なんかこう、今文字に起こしてみて、ほんとうにこの悩みまくった1年は意味があったんだなと思う。よかった。これからも一生懸命生きようと思う。

 

 

 

 

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 このブログを読んでくれている心優しい友人たちへ。いつもありがとうございます。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

もう日本の正月をスキップし出して今年で4度目、初詣とかおせちとかの写真を「いいな~」と思いながら毎年見ています。トロント、大晦日の今日は-22℃まで冷え込む模様。

 

これからもちょいちょい気まぐれに更新する予定ですが、ブログの内容に関して「わたしはこう思ったよ~」とかあればぜひ教えてください。そうでなくても、近況の報告とかね。どうしてもカナダにいると日本と疎遠になるけど、けっこう、みんな元気なのかな、とか気になっているのですよ。気軽に連絡してくれたら嬉しいです。

2018年もみんなにとってかけがえのない幸せな1年となりますように。

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ということで皆様、よいお年を。また来年。

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食べること。今よりちょっと幸せになれる生き方。

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先日行ったBata Shoe Museumにて。 

 

 

昨夜は夫の誕生日パーティで盛り上がった。

「パーティで出す料理はすべて手作りしてほしい」「オムライスが食べたい」という彼の要望にこたえ、久しぶりに張り切っていろいろ作った。とりわけ先月あたりから日本食を恋しがっていた夫のために、すべて日本の家庭料理にしてみた。

オムライス、ポテトサラダ、筍としそのつくね串、唐揚げ、いなり寿司。

オムライスは彼の大好物で、こちらで暮らし始めてから何度も作っている。「卵でとじるのをひとつひとつしないといけないから、オムライスはパーティ料理には向かないよ。一気に出せないじゃん。」と事前に言ってみたけれどどうしても!と言うので、結局パーティに来てくれた人たち一人ひとりに時間差で出した。日本発の料理だけど、使う材料はこちらの人たちになじみのあるものなので口に合うんだろう。みんな喜んで食べてくれた。

今回の唐揚げは、「食戟のソーマ」という料理をテーマにした漫画(アニメもある)に出てくる唐揚げのレシピを参考にしたのだが、これがかなり美味しかった。仕込みの時に、にんにくやしょうが、しょうゆ、酒などの基本の材料に加えて林檎と玉ねぎをすりおろして入れる。スパイスにブラックペッパーと一味唐辛子も(今回はなくて断念)。りんごと玉ねぎのおかげで身がやわらかくできた。

夫の親友(アニメ好き)に話すと、「これ超美味しい!!第5話に出てくるやつでしょ?」とかなり興奮気味。彼はわたしがこれまで近しくなった人類の中で、ダントツでかい。2位の夫にものすごい大差をつけて1位。ならぶと夫が小さく細く見えるから困る。お調子者だが、人当たりがよくとても優しい。彼をはじめ、夫のよき友人たちと共に飲んで食べて遊んで笑って、とても賑やかな夜だった。

 

  

今朝、右腕と手先がうまく動かず筋肉痛のようになっていたけれど、今料理のラインナップを見て気づいた。みじん切りとかダイスに切るのとか、とにかく細かいカット作業が多いものを詰め込みすぎていた。以前こちらのオイスターバーのキッチンで働いていた時にこんな風に細かく切る作業をよくやったなあ、と思い出す。すぐに「あ~手痛!」となっているわたしをよそに、ヘッドシェフはいつも包丁をスッ。スッ。と入れながら淡々と材料と向き合っていた。彼は厳しい人だったけれど、料理する姿が美しく凛としていて、わたしはいつも見ていた。料理人って本当、かっこいい。

 

 

 

 

 

わたしの夢の一つに、「テーブルがパッと華やぐ料理をサラッと作れる奥さんになる」というのがある。広々とした食卓にお友だちを招待して、または夫と二人で(そのうち家族で)、ゆったりした幸せなひとときを演出する。その第一歩として、何か月か前にいろんな国のサラダを毎週作ってみんなに振舞う、ということをしていた。

トロントに来て、幸運にもいろんな国の料理を食べる機会があるのだけれど、国によって料理の見せ方は様々で、その違いを肌で感じるのは面白い。例えば中国料理なら、厨房のフライパンからその熱々の温度のままドーン!!と大皿に盛られて出てくる豪快さと強いスパイスの香りが食欲を掻き立てる。量もすごい。来た瞬間にシンバルがジャァーーーンと鳴りそうな感じ。運ばれてきた瞬間に食らいつきたくなる。一方フランスや日本などは、バランスをとても大切にする。見た目も重要。皿の種類、余白、色彩、配置もきちんと計算して盛り付ける。皿が来たらまず、視覚でその料理を楽しむ。口に運んでそれぞれの食材の触感や味を繊細に感じ取る。料理全体が「作品」という感じ。

 

 

視覚と食欲というのは本当に強く関係しているな、と認識し出したのは夫の家で暮らし始めてからだ。そういう文化なのだろうか、この家の人たちは皿や箸の種類、色、素材なんかにはほんとうに無頓着で、銀色の軽い器(かつてのわたしはずっと犬用に用意してあるものだと思っていた)に米でも野菜でもなんでも一緒に入れて食べたりしているから、料理に関してもまあ味さえよければ何でもいいのだろうと思っていた。

けれどよく観察してみると、みな無意識ながらやっぱり見た目を美味しさの判断材料にしている。この家庭では基本的に毎日中華かベトナム料理が出てくるのだが、肉メインの料理の場合、どうしても色合いが茶色っぽくなる。例えば肉+いも類のみの時なんかは必ず残る。ところが、わたしが次の日残ったそれに少し人参と菜っ葉を加えて、ついでに卵も添えて、しれっと台所に置いておくとそのうち無くなっている。同じ味付け、同じ料理なのに。わたしがもしあの肉と芋にさらに茶色を加えていても完食はされなかったはず。赤、緑、黄色が加わってみんなが「お、食べてみようか」となったんだろう。

 

料理によって器を変えたり、色のバランスを考えたりするのは楽しい。かなりピッキー(好き嫌いの多い)な義理の叔父も、わたしの料理は「綺麗で美味しいから」といつも食べてくれる。見た目で確かに食べる人の幸福度は上がるのだ。ちょっとネギを添えてみるとか、野菜の切り方を変えてみるとか、買ってきた惣菜もきちんと器に盛って食べるとか、そんなことでもずいぶん違うものだ。食べるために食べるんじゃなくて、楽しむために、幸せを感じるために食べる。将来自分で家や家族を持った時、食卓の在り方にはきちんとこだわりたい。

 

 

 

ちなみに、わたしの夫は料理人である。

嬉しくも悲しくも、わたしよりも料理がうまい。付き合って初めてわたしが腕によりをかけて生姜焼きと豚汁を作った時、生姜焼きの付け合わせのコールスローに塩を入れすぎだとダメ出しされてキッチンで泣いたことがあった(懐かしい)。彼は日本食こそ素人だが、その他いろんな国の料理を作れる。スパイスにも詳しい。レストランに行くといろいろ料理について解説してくれるので、しょうゆとみりんと酒があればだいたいどうにかなるだろうなどと安易に考えている日本人妻のわたしにとっては本当にいい勉強の場である。彼のおかげでいろんな国のいろんな美味しい食べものを知れた。

 

そういえば、友人の一人が「理想の男性の絶対条件は食べ物に興味がある人!」と断言していたけれど、今になって「確かに」と納得している。一生コンビニ・スーパー弁当でいいなんていう人とは正直付き合いづらいかもしれない、とちょっと思った。「食」はわたしにとってかなり重要な位置を占めている。まあこんな風に今「食」についてあれこれ考えられるのも、両親が小さい頃からきちんとしたもの食べさせてくれたおかげだろうから、感謝せんとなあと思う。

 

 

 

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なんだか誕生日会から脱線?して食についてあれこれ書いてしまった。まあよし。

 

 

 

 

 

ここ数週間、特に意識しながら生活していることがいくつかある。

これをし始めてからよりハッピーになった気がする。シェアしてみる。

 

1.「自分にとって心地よい空間で過ごす」

2.「会う人、タイミングを自分基準で選ぶ」

3.「お金をポジティブに受け取る」

 

この3つ。

1.「自分にとって心地よい空間で過ごす」

 

何かをする時に、自分の気分が上がる、心地よいと感じる空間で過ごす。とにかく自分の身を置く環境にこだわる。

例えばただ本を読むにしても「インテリアの素敵なカフェで読もう」と決め、実行する。その時に「メイクしてないし家出るのめんどくさい」「外寒そう」「〇〇カフェの方が安いし・・」とか色々無駄な思考が出てくるけど退ける。とにかくやる。

街を歩いている時も、自分の気分の上がる服屋や雑貨屋に入る(別に買わなくても、「可愛い♡」「あんな服着てみたい!」「落ち着く~」みたいな感情を味わえればよい)。「今金欠やし、H&M(例えば)行ってなんか見てみるか」とかはしない。

 

2.「会う人、タイミングを自分基準で選ぶ」

 

これはほんと大事だな~と最近思う。うんうん。

どうして人と会うのか?って考えた時に、わたしの場合は主に

・「自分の知らない世界を知る人から新しいことを吸収したい」

又は

・「自分の興味のある分野のことについて深く掘り下げて話したい」

 

というのが理由。愚痴大会をしたいとか、芸能ゴシップ話で盛り上がりたいとかではない。

この理由の部分は人によって様々だと思うけれど、とにかく行く前に「この集まりに行って、わたしの心は満たされるだろうか?」と自分に問うて、「うーん微妙」「違うかな」って感じるなら断る、行かない。時間は有限だし、「あの人付き合い悪いよね~」とか裏で小言を言うような人たちに好かれなきゃいけない理由もない。

これをすると、一時的に人と会う頻度が減って一人の時間がかなり増えるのである意味孤独だけれど、本当に有意義な時間を過ごせる人たちとの時間を大切にできるし、自分に正直な分ストレスがないから大分楽になる。

ただし、全く新しい場所・コミュニティに行く場合はあまり考えずにフットワーク軽く行くようにしている。最初から自分に合うかどうかは分からないし、何か新しい出会いや発見があるかもしれない。

 

3.「お金をポジティブに受け取る」

 

前にも書いたけれど、わたしは現在ビザ事情により仕事ができず、夫のお金で生活している。夫と言えど、ずっと「誰かのお金で生きている。申し訳ない」みたいな気持ちがどこかにあって、できるだけ使わないようにしていた。だけど当然、申し訳ないと思いながら生活しているとストレスもたまるし、何か購入するたびに罪悪感がつきまとう。

先日母から電話で「ボーナス出たから銀行に少しお金入れといたよ」と言われ、例のごとく「本来ならば経済的に自立してる歳なのに迷惑かけて申し訳ない」と思いながら聞いていた。

でも気づいた。

 

「これ、誰もハッピーにならない!!」

 

夫や母は、わたしがお金を受け取って「ああ、申し訳ない」ともんもんとしながら生きていくことを望んでいない。無論、わたしもそうは生きたくない。

せっかくもらうなら、わたしが少しでもハッピーになることに使って「ああ幸せだー!」と思いながら生きた方がいいじゃん。それだと渡した方も嬉しいしWIN-WINじゃないか。なんだ、簡単なことだ。

 

 

ということで、以来好きな本や雑誌を買って写真の勉強をしたり、ずっと欲しかったジーンズを買ったり、積極的に街へ出て1(上記)のような空間へ足を運んだりする生活を始めた。驚くほど気分が軽くなったし、自分の本当に好きなもののみにお金を使えていて、心が満たされている。満たされているので感謝の気持ちが増え、それが行動につながり、結果的にくれた相手に別の形で還元されるというポジティブなサイクルが生まれている。お金をもらえること=ポジティブなこと、というよくよく考えたら当たり前のことが、思い込みゆえに完全に死角にあった。思い込みって恐ろしい。本当に気づけてよかった。

 

 

というようなことです。

これらを行動に移しだしてから、さらに自分のことを深く知り正直に前向きに過ごせるようになった。ものごとがよりシンプルに、楽になった。

日々に悶々、もやもやしている人がもしいたらぜひやってみてね。

 

 

 

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トロントはすっかり雪景色。美しいけど残酷なくらい寒いです。

今日はただ、思考のおもむくままに書いてみましたとさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さあ、4度めの冬

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はろー冬。

先日クリスマスマーケットに行ってきた。炭火の香りがするほくほくのソーセージやカラフルなチョコレートでトッピングされた可愛らしいプレッツェル等には目もくれず、写真ばかり撮っていた。夫に三脚を持ってもらっていたことを(正直なところ、その時は夫の存在自体を)すっかり忘れて一人ひょいひょいと目線の行くまま、好奇心のおもむくままに歩き回っていて、「三脚まだ使うの?もうしまっていい?(不機嫌)」と後ろから言われてやっと「ハッ。ごめん!」と気づく。そういえば去年も置いてけぼりにしてしまい後で怒られた。それくらい、このディスティラリー地区のクリスマスマーケットはほんとうにフォトジェニックで心を持っていかれる。

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散々トロントの夏は最高、秋は最高などと言ってきたが、そういえばカナダは冬も最高(visualに限る)だった。煉瓦造り×電灯×雪とかね。街全体の彩度が少し落ち着いて、赤や金や白(雪)がぱっと映える感じ。

 

 

 

最近はもっぱら一人時間を楽しんでいた。全然人と会っていない。人知れず黙々とインプット作業を行っていた。一カ月ほど前だったか、読みたい本があったので、ちょうど日本から荷物を送ってくれるという母親に頼んで一緒に4冊ほど送ってもらった。本の重さのせいで送料が高くついたらしく、箱に貼ってある伝票を見てぎょっとした。ごめん母。。。これからはAmazonの海外発送で頼むか、帰国時に一気に買って詰めて帰ろうと反省。

 

とはいえこの4冊、もうすぐ全部読み終わるのだけど、全ての本が怖いくらいに今のわたしにどんぴしゃだった。完全に必要なタイミングで来た。どれも違う分野の本なのに。

その中のひとつ加藤昌治氏の「考具」についてすこし書いてみる。

 

筆者が普段実践しているアイディアの引き出し方、そのために有効なシンキング・ツール「考具」の使い方について解説してある。実際に「考具」を試しながら読んだ。これがとても面白い。自分がどんな風に思考しているのかが見える。読んでいてなるほどと思ったのは、「アイディアを考える段階での頭の使い方は、とにかく広げまくること。実現可能性も無視、脱線もOK。広げられるだけ広げて、その後で絞る」ということ。これが意外とできていない。自分の思考回路を俯瞰してみると、アイディアを出す段階から「いや、これはないでしょ」「これは予算的に無理」とほぼ無意識に判断してそもそも頭から排除していた。なんてもったいないことしてたんだろう。。今は意識的に、その時それがいかにくだらないアイディアだと思えたとしても、頭に浮かんだことはとにかく書き出すことにしている。この「頭の中にあるものを一度外に出す作業」というのがとても重要らしい。

他にも、例えば考具1「カラーバス」では、日常生活で特定の「色」に注目する。例えば朝「今日のカラーは赤」と決めたら、その日1日街を歩く時も電車に乗るときも、とにかく赤いものを意識する。これはわたしもやってみた。色については、写真をやっているので普通の人よりわりと色彩を観察しながら生きているつもりではあったけれど、意識的に特定の色に注目して過ごしたことはなかったのでかなり楽しめたし発見がたくさんあった。赤い毛糸の服を着た犬と、コーヒーショップの赤い看板と、路面をゆく赤い車体の電車が妙に浮き上がって見えて、無関係な3つのものが「色」よって急に繋がる。同じ「赤」というくくりの中にも様々な「赤」があることに気が付く。わたしはちょっと褪せたレトロ調の赤色が好きで、それが看板のように文字と一緒になっているものに惹かれる。文字を見るときにどんなフォントかもけっこう見ている。あと、色がごちゃごちゃした中にある赤よりもシンプルな背景の中にぽつぽつ配置されている赤を美しいなあと思う。こんな風に自分の傾向みたいなものが分かるのも面白い。カラーバスのほかにも、「七色いんこ」や「マンダラート」、「オズボーンのチェックリスト」などいろんな考具がある。これからいろいろ試したい。リンクは下。

考具 ―考えるための道具、持っていますか?

考具 ―考えるための道具、持っていますか?

 

 

 

このインプット期間に、面白い人を見つけた。カナダ在住のバンドマン、且つフリーランス・デザイナーの男の子。見つけたと言っても実際に会ったことはなく、たまたま彼のデザインをinstagramで見て一目ぼれし、すぐにブログを読み始め、「この子すごい!会ってみたい!!!」と思うようになった。いろいろ言いたいことはあるけど、百聞は一見に如かず。こちら彼のブログ。

arairio.com

とっかかりは彼が自らデザインしたというグッズだった。超かわいい。色合いも好き。ぜひとも購入したいけど、かなりのものが既にSOLD OUTだった。それから考え方や生き方。素直で真面目で、パッションに溢れていて、若くして「自分で自分の人生を創っている」人。こんな風に躊躇なく、コンスタントに自らを成長できる環境に放り込めるのはすごい。しかもそれを全力で楽しんでいる。わたしが彼を知ったのは、いろんなことでずーんと底に落ちている時だったから、何というかこの文面から伝わるパワーにすごく勇気をもらった。最近は「わたしもこうしちゃいられない!」と自分を奮い立たせる原動力に確かになっているし、少しずつだけど進むことができている。このタイミングで知れてよかった。先日、起きてInstagramを見たらたまたま彼がStory LIVEをやっていて、初めて映像の中の動いている新井くんを見た。声や喋り方がやわらかく優しく、よい意味で予想と違っていた。超熱いんだけど、同じくらいとても謙虚で素直。やっぱり23歳なんだな~と思える可愛らしさもあった(わたしもそんなに変わらないんだけれど)。若くて、わたしたちと同じようにいろんなことがまだまだ手探り状態。だけど彼の「生きる態度」にはほんとうに見習うべきものがあるし、人としてすごく心惹かれる。「今度本を出すんだ!」とLIVE中に告知していたので、なんとかしてカナダにいながらゲットできないかと目論んでいる。

いやあ、ホント、わたしもこうしちゃいられない。がんばらなきゃなあ。

 

 

つい先日、義妹つながりで撮影の仕事をいただき大学生を撮ってきた。みんな集合時間に遅れて外での撮影を急きょ室内での撮影に変更したり(日が暮れた)、ヘッドショットのはずが1人の女の子のわがままにより途中で腰までのショットに変更したりと「カナダ・・・大学生・・・(苦笑)」となる場面もあったけれど、まあ無事終了。わたしもクライアントも気持ちよく仕事をするためには、お互いがお互いの主張を尊重しながら一緒にいい作品を作ろうと努力する必要があって、そのためには事前のコミュニケーションを充実させることが不可欠なんですね。今回はここの部分が足りてなかったな、と反省した。

①事前に「作りたい写真のイメージ」を明確にしてお互いがしっかり理解する。

(その時クライアントが想像しにくそうな場合はわたしが積極的に提案してあげる)

②わたしが主張べきことはきちんと相手に伝える。遠慮しない。

 

もちろん準備してもなお、撮影において予想外な事態というのは起こるんだけれど。それらに余裕を持って対応できる柔軟性を身に付けるにはまだまだ経験が必要。これから日々トライアンドエラーを繰り返しながら成長していければよいなと思う。

 

改めて思ったんだけれど、自分で仕事をして報酬をいただけるというのはほんとうに嬉しい。「それが仕事でしょ」と言わればそうなんだけど。フリーランスというのは自分で自分の仕事に値段をつけなければならず、つまり自分で自分を目に見える形で評価せねばならず、それもあってか報酬をいただいた時は「はぁぁああ、ありがとうございます(涙)」となる。間違っても「わたしの仕事よ。これくらい当然でしょ?」とはならない。お仕事をいただけるというのは本当にありがたい。自分の好きなことで人の役に立つ、しかもそれでお金をもらえるって最高だなあと思う。もっと人に与えられる自分になれるよう、努力を続ける所存。

 

 

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なんだか無性にホットチョコレートとシャンパンが飲みたくなるこの季節。

これからさらに寒くなるんだろうなあ。

最近口ずさんでいる曲。

www.youtube.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近考えていること





最近考えていることがある。



ここ最近の自分がさっぱり冴えなくて嫌いだった。今は抜け出してめちゃくちゃハッピー!というわけではないものの、すこし俯瞰して自分を見られている分ほんの少しだが前進した気がする。自身のために文字に起こしてみる。
(今回ある心理学の本をもとに思考しているので読んでいない人にはなんのこっちゃらという感じだと思う。プラス、完全に自分の頭の整理のための記事なのでそこは悪しからず。)


「嫌われる勇気」に引き続き、「幸せになる勇気」を読んだ。アドラー心理学実践における現実的・具体的な疑問に答えつつ、その方針が提示してあった。
「嫌われる勇気」では、人へのアプローチの仕方について「人に対して、行為レベル(その人が何をしたか)ではなく存在レベル(その人がそこに存在していること)で感謝する」ということが述べてある。「幸せになる勇気」ではさらに人間関係構築の入り口は、尊敬であり、尊敬とはありのままにその人を見ることである」とある。


・尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。

・尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである。

・彼らが変化する保証はどこにもない。(中略)まず「あなた」がはじめなければならない。いっさいの条件をつけることなく、どんな結果が待っていようとも、最初の一歩を踏み出すのは「あなた」です。


これについては理解、納得はしたものの、実践できていない。というよりも、ある人物(仮にKとする)に対して実践を自ら放棄していた。日々、特に最近、わたしのKに対する嫌悪感は強まっていて、足音や声を聞くだけで反射的に嫌な気持ちになってしまう。本心を言えば、出来るだけ関わりたくないと思っている。今の状況下では関わりをゼロにはできないのだけど。

出会った当初はKの不幸な境遇を理解し、共感し、狂気的な行動等に対しても寛容であり続け、過度な干渉にもある程度応えて来た。出来ることならKが変われるようにサポートしたいと本気で思い、色々試した。


けれど今、人間関係の入り口であるはずの「尊敬」自体を放棄している。「存在レベルで感謝」していない。トライすらしていない。
仮に今わたしが教員として教壇に立ったとして、クラスの生徒全員をここでいう「尊敬」という態度をもって接する努力をするか、といえば、全力でする。その意志とエネルギーがある。わたしの働きかけによって、子どもたちが人生に立ち向かう勇気を獲得できる(可能性かある)のであれば、精一杯トライする。


結局のところ、わたしはその対象によって尊敬するか否かを変えていることになる(よろしくない)。目的論で言うと、「わたしはKと関係を構築したくないがために(目的)、尊敬という態度を放棄している」ということになる。目的はいつも先に来る。


わたしの疑問

:わたしは自分に多大なストレスや負荷がかかろうとも、相手が変わるかどうかが分からなくても、Kを含めすべての人を「尊敬」し、存在レベルで感謝出来るような努力を、本当にしなければならないのか。

:それとも、自身の今この瞬間の幸せを優先し、存在自体に嫌悪感を抱いてしまうような相手は思い切って自分の人生から距離を置き、無関係な場所で一緒にいて幸福だと思える人々と共に人生を歩めばいいのか。

:もしくは↑この2つのバランスを取って人と接するのか。 (バランスを取るのは難しい気がする)


もちろん、理想はいちばん上なんだろうけれど。人によって使い分けるものではないし、これを突破口にしてあらゆる他人と横の(対等な)関係を築くことが出来るようになるかもしれない。










これとはまた別に、承認欲求や貢献感について考えていた。

わたしはVISAの関係等でかれこれ2年近く仕事をしていない。職場というコミュニティを持っていない。夫の家で彼の家族と暮らしているが、この家族への所属感もあまりない。友人はいるけれど、 出かけて楽しむだけであまり深い話はしなかったり、留学生とは仲良くなっても結局いっとき経つと自国へ帰ってしまい、毎回寂しい思いをする。


仕事をしていないので時間は無限にある。本を読んで学びを得たり、写真を撮りに行ったり、何か小さな新しいことに挑戦してみたり。最初の1年くらいは楽しかったように思う。
しかし時間はあるけどお金はない状態が2年近く続いている今、精神状態がどうも不安定になって来ている。わたしはあまり感情的なタイプではなくて基本常に平穏なのだけれど、最近波が激しい。やらなければいけないことがすぐ出来ずに後回しにしたり、それに罪悪感を抱いたり、学びを得た後に意気込んで新しいことを始めても続かなかったり、ちょっとしたことで心が折れたりしている。
最近夫の出勤に合わせて早朝に弁当を作っているのだが、何度か寝坊して作りそびれ、ひもじい思いをさせた。そんな自分が嫌になって泣いた。自分でも驚いた。夫は怒らなかったし、「眠いよね、いつもありがとう」なんて言ってくれる時もあったのに、そんな優しい言葉も全く慰めにならずさらに泣くはめになった。


なんでそんなことになったのかと考えた時、ひとつは自身への劣等感があると思う。ここでわたしが感じている「劣等感」は、誰かと比較して自分が劣っている感覚というよりも、「理想の自分」に到達出来ていない現在の自分に対する劣っている感覚という方が正しい。無数の「わたしはこうなりたい」という欲望や目標、「理想のわたし」を掲げながら、それが達成できていないことに対する焦燥感や苛立ち。この無職期間にいろんな本を読み、いろんな人や生き方に出会い、「わたしは将来こんな風になりたい」「今すぐにでもこうしたい」というワクワクした気持ちが膨らんでなんでも出来るような気になった。小さな挑戦を繰り返してはやめ、繰り返してはやめ、その度に目の前に転がっている現実を目の当たりにし、そのギャップに落ち込んだ。


これはわたしが、他人以前にわたし自身を存在レベルで受容していない、ということである。つまり「普通であることの勇気」が足りていない。自分はここにいるだけで価値があり、誰かの役に立っている、と思えていない。今回身をもって気づいたことは、これは他人に承認されることで満たされるものではないということ。周りにはわたしを役立たずだと罵る人はいないし、夫は毎日「側にいてくれるだけで十分だ、ありがとう」と伝えてくれているのに、尚自分に価値を見出せないのはなぜか。それは、じぶんが誰かに貢献しているという感覚「貢献感」はわたし自身の主観によって得られるものであって、他人に承認されて満たされるものではないからであり、今現在わたしは自分が役に立ってないと思い込んでいるからである。



なんてこった。(書いていてびっくり)逆に言えばわたしが自分の存在価値を認めて、普通である勇気を持ち、いまここを一生懸命生きればいいのだ。だって幸運にも、わたしの大切な人たちはわたしに存在レベルで感謝してくれているんだから。あとはわたしが変わるだけということ。

さらに、人間の幸福=貢献感ということから言えば、 仕事ができないにせよ人に何か与えられることを始めるといいのかもしれない。今は理想ばかりでそれがきちんと形に出来てないから悶々としている状態なのだ。目に見えた形であってもいいし、なくてもいいのかもしれない。例えばわたしの特技のひとつは人の話を親身になって聞くことなので、それだけでも貢献感(幸福)には繋がる気がする。友達の話をカフェでただ聞いている→わたしは友達が自由に話してリラックスしたり、ストレスを解消したりする手助けをしている(貢献感)。というふうに。本当に、これはぜんぶ自分がどう意味づけするかですね。





こんなことについてあれこれ考えていた。人に言わせれば「そんなに深く考えなくても。」ということなんだろうけれど、わたしにとってこれは重要課題であり、おそらくまた作中の青年のように少しずつ前進しながら、その都度新しい悩みと向き合いながら、わたしなりに歩み続けるのだと思う。

「写ルンです」でトロントの夏を撮る。

現像を頼んでいた「写ルンです」の写真データが届いた。



:Scarborough



:Ontario lakeから望むToronto city。この時間帯の空×水辺は最高。


写真データをDropboxでシェアする形で、1週間ほどで出来た。データではあっても、久しぶりに目にするフィルム写真に予想以上に心が躍る。
この独特の味がいい。フィルムならではのツブツブ感、色味、滲み出るノスタルジックな空気がたまらない。






そもそも数ヶ月前、溜まっていた家電屋のポイントを利用して半ばノリでinstax-mini8(いわゆるチェキ)を購入したのが始まりだった。
普段はデジタルカメラで人や町並みを撮っているのだが、instaxを買って以来撮影やお出かけ時に鞄に入れて持ち歩くようになった。
何度でも撮り直しのきくデジタルカメラとは違い、フィルムカメラは一枚一回きり。しかもinstaxは1つのフィルムで10枚しか撮れない。シャッターを押す前の数秒、よしここだ!という瞬間までいろんなことが頭をよぎる。いい意味で躊躇する。この「間」が楽しかった。


今春夏はポートレート撮影のため、デジタル一眼と共にトロント市内を歩き回り、様々なバックグラウンドを持つトロントニアンたちを撮っていた。当たり前だが、撮影の日はカメラ本体・レンズ数本・三脚、と重装備である。撮影中はと言うと、ライティングは、カメラの設定は、モデルへの指示は、と常に頭はフル回転。撮影後はどっと疲れが出る。


その点、このinstaxmini、電源を入れて適切な明るさを点滅表示で確認し、そこにセットしてシャッターを押すだけで写真が撮れる。しかもその場で出てくる。撮影後の編集もない。世界を見渡し、切り取りたいと思う瞬間をただ切り取ればいいだけだ。このシンプルさが、思いのほかわたしの心を自由にした。撮影続きで頭の中がぎゅうぎゅうになっていたのだと思う。何もない天気の良い休日はinstaxが活躍した。
ラベンダー畑、遊園地、港、神社、海、友人との食事、結婚式。どこにでも持ち出して思うまま感じるままに写真を撮った。



こうしてフィルムの魅力に気づき始めたわたしは、写ルンですを手に入れた。 8月に日本から戻って来てしばらくたったある日、妹がくれたのだ。中学校の修学旅行以来の、写ルンです。ピリピリと封を切ると、懐かしいフォルムがでて来た。未だに、裏に名前を書く欄がある。フラッシュボタンを上に上げると、チュイーンという音とともに四角い部分が赤く点灯する。撮影するまで巻いてはいけない(シャッターが軽くてすぐきれてしまうため)とは知っていても、このジャリ、ジャリという指の感覚が爽快でつい巻いてしまう(結局それで2枚ほど没にした)。

丁度いいタイミングでトロント・アイランドへのピクニックのお誘いを受けていたので、ポケットにつっこんで一緒に出かけた。
そう、このポケットに突っ込める、バッグにポンと投げこんでおける感じ。使いたい時にサッ。カシャッ。ポン。この手軽さがいい。デジタル一眼を持ち歩く時はそれなりのバッグにそれなりの保護をして入れて置かねばならず、重いし、取り出す際いちいち気を遣う。
写ルンですの、ポケットに入ってることすら忘れるくらいのライトさに、なんだか気持ちまでも軽くなる。
この日は天気も良く、まさにピクニック日和だった。


: 湖に突き出た橋の先で。




: 望遠鏡を覗く少年。この望遠鏡、古くてメタリックでいい感じだった。




: 島を去る前に船の上からもう一枚。




: 街中でも写ルンです。トロント市庁舎前。




ストリートカーのある風景がすき。最近言われて気づいたけど、トロントは赤いものが多い。



夏のトロントは非常に気持ちがよい。湿度が低くカラッとしていて、特に湖の近くは風が心地よい。冬が長く厳しいトロントでは、人々は春夏になるとここぞとばかりに外に出てその喜びに浸る。春先に動植物が冬眠から覚めてみな一斉に活発になるのと同じように、暖かくなると一気に街のハッピー度が上がり、用はなくてもとにかく外に出て何かしたい気分になる。真夏は夜9時ごろまで明るいので、遊びに夢中になっていたらもうこんな時間、なんてこともよくある。


今年の夏日本に帰って感じたのは、湿度が尋常ではないということ。湿度と汗で身体全体の皮膚が呼吸困難になり、シャワーを浴びるか涼しい場所に避難してさらさらシートで全身を拭くかしない限り一日中ベタベタがつきまとう。気づけばカナダでの生活が長くなればなるほど、「日本の夏、無理だ。。」となっている自分がいる。冬は日本で、夏はカナダで暮らすのがベストだなと思う。できれば将来はそうしたい。


例年になく、つい先日まで半そでで外を歩けるほど気温が高かったトロントだが、さすがに最近少し肌寒くなってきた。カナダの国旗の象徴であるメープルをはじめ、あらゆる種類の木々が色づき始めている。先日また新しい写ルンですを入手したので、早く紅葉の美しいハイキングコースを見つけて撮りに行きたい。