寒国しろくまと夢のたび

カナディアン夫と暮らすトロント在住フォトグラファーの思考録

弟たちがカナダへ。彼らとの2週間を経て感じたこと。

 

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冬になろうとしている。

久しぶりの更新。

 

 

 

10月の初めからついこの間まで、実の弟がトロントに来ていた。

1つ下の弟は2年ぶり、5つ下の方はもう4年以上ぶりだった。いつの間にかお酒も飲めるようになっていて驚く。月日が経つのはこんなにも早い。

 

カナダに初めて来てからほぼ4年、いろんなものを見たし、経験した。4年前のわたしとは明らかに大きく変わっている。

弟たちは、英語を喋るわたしを知らない。結婚して、パートナーと暮らすわたしを知らない。異国の地でいろんな年齢、人種、性別の人たちと働き、お酒を飲み、語り合うわたしを知らない。以前と全く違うライフスタイルを送る姉を、弟たちはどう思うのだろう、と、空港へ向かう電車の中で思う。

 

 

弟たちと再会し「久しぶり」とか「入国審査はスムーズに終えたか」とか、少し言葉を交わすうちに、ああこんな感じだったと懐かしい気持ちになった。4年間という長い時間はなかったんじゃないかと勘違いしてしまいそうだった。彼らとはものすごく訛った方言で話す一方、横にいる夫とはペラペラと英語で話す自分がなんだか不思議だった。弟たちはそんなわたしを見てなんとも言えない顔をしている。そりゃそうだよなあ。

いつの間にか、お姉ちゃんはこんなに変わっちゃった。

 

 

 

夫もわたしも2週間のバケーションをもらっていたので、毎日弟たちと出かけた。

いろんな国の料理を食べに行った。日本では見られないグラフィック・アートを見たり、古着やレコードを見て回ったり、友だちの運転で紅葉を見に行ったり。

 

 

何度も行った場所でも、弟たちになったつもりで、新鮮な気持ちで自分の住む街を歩く。

車が右側通行であることや、リスがそこらじゅうにいること、高い木々と色とりどりのメープルの葉、様々な人種の人たちが各々の言語を話しながら行き交っていること。いちいち感動する彼らを見て、わたしも当たり前になりつつあった日常にハッとする場面が何度もあった。そうだ、わたしも初めて来た時こうだったな。

 

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彼らが来て強く感じたこと。

 

わたしがカナダに暮らしていること。

毎朝起きたらわくわくする景色が広がっていること。

素敵なカフェでコーヒーを飲めること。

人目を気にせず、ゆる〜く仕事をしながら自由にのびのびと生きられること。

あらゆる人種の、国の人たちとコミュニケーションを楽しめること。

素晴らしい夫や友人に恵まれていること。

 

 

こういうことすべて、当たり前じゃないんだ。

特別で、愛おしくて、かけがえのないものだった。彼らと過ごして以前よりさらに、自分の置かれた贅沢すぎる環境に感謝の気持ちが湧いてきた。

 

 

「ねえちゃん、本当にカナダに住んでいるんだねえ。」

 

 

1つ下の弟が不思議そうに、でも少し嬉しそうに言った。

 

 

そうだった。わたしはカナダに住んでいる。

22歳の時、海外に住みたい!と急に思い立ち、大学を卒業してから家族の助けをかりてトロントへ飛び立った。

 

夫は世話好きなので、2週間ほんとによく彼らの面倒を見てくれた。彼の人柄もあり、2人とも夫に完全に心を許し、分からないなりに一生懸命英語で話そうとしていた。

 

1つ下の弟は、昔からおねえちゃんっ子だった。どんなにいじめられても(昔のわたしの暴君ぶりはほんとうにひどかった)、おねえちゃんおねえちゃんと後ろをついてくる子だった。

小学生の頃、わたしの男友達がおうちに遊びに来た際に、おねえちゃんを守る!という謎の正義感からか、インターフォン越しにその友達を追い払おうとしたこともあった。

わたしは特に彼らの前ではほんとうに男勝りな強い姉だった。小学校の時はスカートを履いたことがなかったし、毎日男の子とドッジボールをして遊んでいた。そしていつも、自分にも彼らにも厳しかったのを覚えている。

それもあって、そんなわたしが今男性(しかも異国の人)と結婚して一緒に暮らしていることや、愛情表現豊かな夫に自然に応えているこの感じが、少し照れくさかったりもした。

 

けれど彼らは出かけるたびに嬉しそうにわたしと夫のスナップ写真をこっそり撮っていた。

わたしの幸せを、2人とも祝福してくれているように思えて素直に嬉しかった。

 

 

2人の弟と久しぶりに会ってみて、やっぱりここ数年で大人になったんだなぁと思う反面、変わってない部分にほっ、と温かい気持ちになったのも事実だった。

彼らの素直さ、素朴さ。

人の気持ちを慮れる、純粋で優しいところ。

分からないことを知ろうとする姿勢、吸収力。

全然変わっていなかった。

姉弟っていいな。この子たちと家族でよかったって心の底から思った。

 

 

末っ子は、兄より9日ほど長く滞在した。その間にわたしぬきで夫と彼の友人達from Canadaとビリヤードをしに遊びにいったり、買い物に行ったりしたこともあった。

末っ子は保育園の時からとにかくスポーツ一本で生きてきて、自分はもちろん、周りにも海外に興味のある人はいなかったようだった。学生時代、一番の苦手教科は英語だったと言っていたくらいなのに、帰る頃には「僕ももう一度英語勉強してみたい」とわたしに話してくれた。

この旅行中に、彼の中で何か感じたことがあったんだろうなぁ。

 

 

世界を見るって、自分の中にあったいろんなものがガラガラと音を立てて崩れていき、同時に新しいものが少しずつ建設されていくこと。

この感覚ってやっぱり実際に目で見て経験してでしか、分からないんです。握りしめていた価値観が一気に崩壊する感じ。崩壊する時って、ワクワクするんです。

だからこそ、彼らがこのタイミングでカナダに来たことは必然であるとわたしは思っている。わたしや夫やカナダの人たち、この国の文化を通して感じたことが、これからどう彼らを創っていくのかがとても楽しみだ。

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気温はすでに0度を下回っている。

 

 

今年の冬は、どんな楽しいことをしようか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ビールが美味しい季節ですね

 

 

暑い日が続いている。

 

 

だいたい夏は湿気がなくカラッとしているものなのだが、ここ1~2週間のトロントは本当に蒸し暑かった。先日のCanada day(建国記念日のようなもの)は友人とトロント・アイランドという島に渡って休日を満喫した。ここ最近の中で最も暑いしかも人のごったがえした日を選んでしまったのだが、往復で乗った船の舳先で夏の心地よい風を感じたり、トロントの街を眺めて綺麗だねぇと言ったり、木陰で美味しいパンを食べながら休暇を楽しむ幸せそうな家族連れを眺めたりして、充実した一日だった。夜は夫も一緒に、前日から用意しておいたいろんな種類のクラフトビールをテイクアウトしたタイカレーと共にいただいた。

 

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(こういうのがずっと続けばいい。)

 

今月をより幸せな月にするために(今も十分幸せなのだが)、あとは単に頭の中を整理するという意図で6月についてまとめておこうと思う。

 

 

 

6月は「やりたくない、又はどちらでもいいことを手放す」ということを新しく意識してやってみた。

 

現代の人というのは、わたしも含め、不思議なくらい自分の感情に無頓着なものである。放っておくとすぐに日々に追われて心を失くした機械のようになる。毎日起こるあれこれを咀嚼したり、自分の本音と向き合うための気力も時間もない。特に日本は社会の体制的にその傾向がかなり強いなと思う。わたしは日本での社会人経験が5カ月のみでトロントへ来てしまったために、あまりそれを自ら体感することがなかったのだけれど、こうしてカナダで様々な人のライフスタイルに触れ、外から客観的に日本という国を見てみるとやはり異様だなと感じる。みんなどんだけ忙しいんだ・・・。

日々積もっていくモヤモヤをごまかして、土日にあれこれ予定を詰め込んで楽しいふりをしてみるけれど、根本的なところは解消されず結局はまたうんざりしながらあくせく働く。そんなのを同年代の子たちのSNSなどで見かけるたびにやるせない気持ちになる。

 

 

そんな中、地球の反対側でマイペースにゆる~く大学生みたいな生活をしているわたしがいる。レポートやテストがない分大学生より暇かもしれない。この間は平日の昼間から友人とビールを飲んでいた。わりとよくあることだし、同じような人がいくらでもいるので罪悪感もない。

恵まれているなあ、幸せだなあと思う一方、これがLifeの本来あるべき姿なのでは、と思ったりもする。

 

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(たまごとほうれん草ってやっぱり最強。)

 

 

 

日々自分の感情に虫メガネを向けていると、やりたくないことというのは怖いくらいたくさん見つかる。

例えば小さいところで言うと、皿洗い、料理、大人数の飲み会、どうでもいい世間話等。こういうのを「やだな、やりたくない」と思った時に、その感情に素直に従う。

単純に「やらない」という選択肢もあるし、「やりたいと思う時にやる」「他の人(又は機械等)にやってもらう」という風に、とにかくやらなくてもいい方法(やる頻度を減らすでもよい)を考えて工夫しできるだけそぎ落としていく。

 

今月具体的にやったことは、

  • 気分がのらない集まりをぜんぶ断る
  • 新しい職場を3回で辞める
  • 料理が面倒な時はテイクアウト、外食、又は夫に作ってもらう
  • やりたくないことを頼まれた時にきちんと断る
  • あっても気分の上がらないもの、どうでもいいものを断捨離

 

 

 

これらをやったことでの変化は以下の通り。

「ストレスが大幅に減り、自分にも人にも寛容になった」

「時間にも心にも余裕ができ、やりたいことのアイディアがどんどん湧いてきた」

「自分の軸がさらに強くなり、他人の言うことに左右されることがほぼなくなった」

「さらに、日々に幸せを感じられるようになった」

 

 

 

 

 

「やりたくないことを手放す」って最初はわりと勇気がいる。特に、今まで自分がしていたことを人に頼むときや、それを手放すことで誰かに迷惑がかかる(と予想される)場合。

大体躊躇してしまう時って「こんなこと言ったら嫌われるんじゃないか」って思うとおもうんだけれど、そこで踏ん張る。嫌われてもいい!と決めて、やる。

 

 

2つ目に書いた「職場を3回でやめた」というのはわりと最近の話で、その職場はある人から「あなたならきっと気に入るはずだから」と紹介されて始めたところだった。

けれど、サッと辞めた。自分の感情を俯瞰できるようになると、「これ楽しいな」「これ嫌だな」ということにだんだん敏感になってくる。

仕事後にものすごく疲れるので、なんでだろう?と考えてみた。

よく分析してみると、そこでの業務は私の苦手なことのオンパレードだったのだ。そりゃ疲れる。細かい数字の処理、モルティタスク、不特定多数の人々とのあたりさわりのない会話・・・。これらをやっているとき、苦痛を感じている自分に気づいた。

「これは向いてない、他にもっと楽しくやれる人がするべき」と思ってすぐ辞めた。

昔の私ならば、それらが苦手と気が付くこともなくとにかく人並み程度にはできるようにと必死に努力しただろうと思う。昔はやらなきゃの一択だった。

よくも悪くも真面目なので、できないことがあるとすぐがむしゃらに頑張り出す性。

 

 

 

でも今分かることは、「自分が心地よく、楽しくできることをやるのがベストだ」ということ。自分にとっても、そして周りにとっても。

人生にやりたくないことや苦手なことを克服している時間はないし、幸せだと思えないことに毎日を埋め尽くされて生きていくなんて・・・!と思う。

 

まず癖付けとして「わたしは今どんな気持ちだろう」ということに意識を向けるということを日々行う。そして「これ嫌だな、やりたくないな」と思ったとき、それをいちいちメモしてみる。まずは気づくこと。

それから「これをどうやったらやらずに済むかな?」ということを考える。そこで恐怖が出てきたり、言い訳しそうになったら、それがなぜできないと思うのかを自分に問う。

前回の記事に書いた「思い込み外し」の部分。

 

「言ったら嫌われるんじゃないか」「迷惑がかかるんじゃないか」とかいろんな思い込みが見つかると思う。嫌われていいし、迷惑がかかってもいい。

 

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(どこぞやの家具屋さん)

 

思えません、やっぱり嫌われることに恐怖がありますという人はわたしに個人的に連絡下さい。相談のります(最近、思わぬ人から連絡や相談がくる。ありがとうございます。力になれることあれば本当になんでもやるよ)。

ここではちょいと省略。

 

 

手放せたらこっちのもん。すっきりするし、ほんの少し強くなれる気がする。

とは言え、まだまだ手放せてないなーと思うものも多々。日々模索中。

7月はもっともっと手放していく。

そして次のステップ。「本当にやりたいことに価値を見出し、実行する」

何かを手放すとそこに「空白」ができる。空白ができると、本当は何をしたいのかが明確になってくる。アイディアが湧いてくる。今、やってみたいことがたくさんある。

7月はそれを実行に移す月にしたい。

 

 

 

 

もう1つ密かにやっていることがある。

それは、お金を出して何かを買う時、または誰かに現金やものをもらう時、

「幸せを感じる癖をつける」こと。

何かを得た時に「こんな素敵なものを得られて、嬉しいな、幸せだな」と思う。

それが人が与えてくれたものであれば全力で「ありがとう!」と伝える。

 

それから、何かを買う時、一度立ち止まって

「これを得たらわたしは心の底から幸せだろうか?と問う」こと。

いちいち自分に聞くのだ。その答えが「?」だったらなるべく買わない。

つい先日はスーパーでこの問いかけをし、納豆と韓国キムチを買った。

 

家に帰ってホカホカのごはんを炊いて、生卵を落としてその上から納豆とキムチ・・・。一瞬で幸せに包まれた。いつもより元気に店員にありがとうを言えた。

 

納豆やキムチに限らず、例えば服や生活用品を買うとき。レストランで料理やお酒を頼むとき。本当に自分が幸せになるものを選ぶ。

値段よりも、人にどう見られるかよりも「自分が幸せになるか」を基準に選ぶ。

そしてそれが手に入った時、身体全体で喜びを噛みしめる。

 

もちろん、今の時点で1着10万円のドレスを一括でホイっとは買えない。それがどんなに魅力的で、手に入れらたらどんなに幸せかと考えても、すぐに買えないものはある。

けれどそこで「買えないわたし・・・ガーン」ではなくて、「あれを着て街を颯爽と歩けたら最高だろうな」「いつか買える自分になろう」と思考を転換する。

 

 

 

ちなみにわたしは今MacBook pro(パソコン)が猛烈に欲しい。3000$(30万)くらいするから、まだ買えない。でも今すぐには買えなくても、Appleや家電屋へ行って実物を触ってその滑らかさに感動することはできるし、先日は写真を印刷してノートに貼り付けてそれを眺めながら、「これをお気に入りのカフェに持って行って写真の編集とかできたら最高やな」などと呑気に妄想にふけっていた。

 

これをするようになってから、ラッキーなことが立て続けに起きている。

働いているお店の常連客の一人にフィルム一眼レフをもらったり、夫に臨時収入があったり、三脚やカメラ用品を無料でもらったり。それこそMacBookに関して言えば、長らく連絡を取っていなかった友人から「僕の働いている航空会社の社員割引で少し安く手に入るから買う時言って」とメールをもらったり。

母親にこのことをシェアしたら彼女も実践したらしく、久々に宝くじが当たったと連絡があった。

 

 

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(たんぽぽ群。毎年めっちゃ咲く)

 

 

なんでこんなことやってるかって、単純にそう考えた方が楽しいってのと、考え方ひとつで世界の見え方がいかようにもなるということを日々実感し、確信しているからだろうと思う。

そして周りにいる人たちの中でもやはり、感情に素直に妥協せず自分の幸せを追求している人はやっぱり輝いている。自分もそうなりたいと思うから、盗む。真似る。

 

 

 

 

 

 

トロントの夏はあっという間だ。

うかうかしていたらすぐ冬が来る(いやホントに)。

2018年、異国での夏。大好きな人たちが周りにいて、平和で穏やかな毎日。

この夏はもう二度と来ないんだよなぁ、とか思う。

この日々に、一瞬一瞬に、いちいち感動していたい。

 

やりたいことは、山ほどある。

やったるど。

 

 

最後は今年の冬のお気に入り写真。

つい赤い人を撮ってしまうな。

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夫は5歳児かもしれない説。

Hello。

 

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トロントもすっかり暖かくなった。

先々週は桜を見に義妹と大きな公園へでかけ、アイスクリームを食べたり写真を撮ったりした。街を見渡せば人の往来が極端に増え、最近は半ズボンやタンクトップ姿の人もちらほら見る。家の冷蔵庫には気がつけばビールがこれでもかというくらい入っている。

 

春だ。

 

 

 

 

今年に入ってから仲良くなり、特に最近よく遊んでいるお友だちがいるのだが、彼女とは今までわたしが人とシェアしたことがなかったような分野の、しかもわりとディープなことを話せるのでとても面白い。

この一見よく分からないブログの題名も、彼女との会話の中で生まれた。

 

 

以前書いたけど、数年前から現在にかけてわたしは「自分と向き合う」ということを徹底的にやっている。どうしようもなく落ち込んだり壁にぶち当たる度にとにかく自分の気持ちとじっくり向き合うという作業を繰り返していて、振り返ればほぼ無意識的に役立つ情報をあらゆる分野からかき集めていた。それが心理学だったり、思考学、脳科学、哲学やスピリチュアル的な話であったりしたのだけれど、1人で黙々とやっていて特に周りに同じようなことに興味のある人がいなかったので、今こうして知識や経験を共有しながら考えを深め合える友人に恵まれたことがとても嬉しい。1人もいいけど、やっぱり話せる人がいるのはいいな〜と改めて思う。

 

 

 

 

 

結局のところ、いろんなものを削ぎ落としていけば人間の望みって「楽しく幸せに生きたい」って、根本的にはシンプルにただそれだけなんだろうと思う。わたしが悩んでもがいて日々わーーってしてるのも結局は苦しみを無くして毎日幸せに過ごしたいからで。みんなそうよねきっと。

 

 

 

で、そのためにわたしが兼ねてやっている作業の1つ「思い込み外し」というのに彼女も巻きこんだ。

私たちは生まれてから今まで、周りの大人にありとあらゆる価値観を植え付けらながら、そこで形成されたルールに従って生きている。それは親の考え方だったり、世間の常識だったりするんだけれど、それが私たちを生きづらくしているケースは多々ある。「思い込み外し」というのはその1つひとつに気づいて思い込みをなくしていく地道な作業。

 

 

例えばわたしは、小さい時に両親の方針でテレビゲームを買ってもらえず「ゲームは人間をダメにするもの」、「ゲームばかりしてるやつは堕落している」という価値観がいつのまにか形成されていた。そうして大人になり、結婚した。夫はゲームのあるお家で育ったので、暇があればストレス発散にゲームをしている。わたしは彼が平然とゲームを楽しんでいるのが我慢できず、「もっと有意義なことに時間を使ったら?」などと嫌味を言ってしまったり、いちいちその光景を見る度にイライラしたりしてしまっていた。

 

自分が自分に禁止していること(わたしの場合はテレビゲームをすること)を、他人が平然とやっているのを見ると、人は嫌悪感を覚える。彼が休みの日に朝までゲームをしていて激怒したこともあった。それくらい敏感だったし嫌だった。

 

 

ここで「ゲームはダメ」という考え方が、単に親から植えつけられた1つの概念に過ぎないことに気づく。これがファーストステップである。

 

それから、

 

「わたしもゲームをしていい」

「ゲームは人にいい影響を与えることもある」

「ゲームは楽しい」

「ゲームをしている時、彼は幸せだ」

 

というように、無理のない程度にポジティブなものに変換する。禁止を解いて、自分に「やってもいいよ」と許可する。そして同じ場面に出くわした時、この考え方を採用するよう努める。

 

 

そうすると、夫がゲームをしていても気にならなくなってくる。今はもう「楽しそうだね、何のゲーム?」とまで言えるようになった。夫も気兼ねなくストレス発散できるし、わたしも別に何とも思わないのでお互いにストレスフリーでハッピー。

変えるのは相手ではなく、自分の考え方の癖。夫は何も知らないので、わたしが勝手に実験しているだけなんだけど、これをいろんな場面で採用しだしてから夫婦仲が驚くほど変化し、幸せ度が一気に増した。

 

これはほんの一つの例に過ぎないけれど、思い込みと言うのは生活していると無数に見つけられる。見つけるポイントは、イライラや不安、恐怖など、何かネガティブな感情が湧いてきた時に「わたし今モヤモヤしているな」と気づくこと。それをヒントに「なんでこんなに心が揺さぶられるんだろう?」と自分に問う。掘り下げていくと、大なり小なり過去に形成された思い込みが見つかる。一個の問いで複数見つかることもある。思い込みが判明したら、それを「思わないようにする」のではなくて(そうするとまた自己否定に陥ったりするので)、「こういう風に思えたらもっと楽しい」という別の考え方を自分で用意し、その場面が来た時に頭の中でサッと変換できるようにする。これは繰り返すうちに自然とできるようになる。

 

つまりは世間の常識や今まで自分が過去の経験によって作り上げてきた価値観の中で、自分を苦しめるものはどんどん手放していこうということだ。

 

「痩せていて可愛くないと男性に愛されない」

「家事をやらない女はだらしないと思われる」

「クールな自分を演じなければ周りから尊敬されない」

 

こんなものはただの幻想である。

 

実際わたし自身、いろんなものを手放しシンプルに振舞いだしてからいろんなことがうまく回り出した。今までの人生の中でも、がちがちの頭が緩んで何かを手放した瞬間に「あ、これやりたい」と思い立ったりして、それを素直にやって結局うまくいくことが多かったな、と思う。

 

 

 

 

 

 

話が長引きました。

それでなんでこの題名やねんということですね。

思い込みがある人ほど、生きづらくなるねという話をその友人とする中で、わたしの夫の話になった。

 

思い込みが年齢や経験とともに洗脳的に形成されていくものだとするなら、生まれたばかりの赤ん坊は思い込みが全くない、ということになる。小さい子どもが危なっかしいのは、ある意味「これをしたらこんな悪いことが起こる」という概念がないので、なんでもかんでも本能のままにやろうとする。

 

 

友人はわたしの夫とも仲良くしてくれているのだが、彼の言動ついて改めてよく考えてみると、とにかく本能のまま、気持ちのおもむくままに生きているだけなのでは?181cm、100キロだけど、本当は5歳なのでは?という話になった。

 

 

彼はわたしと付き合いだした当初から、結婚したいと言い続けていた。付き合って数ヶ月の、国籍も育った環境も全く違うわたしに、何の疑いもなく「結婚」の2文字をぶつけられる理由が当時のわたしにはわからなかった。結婚するかもわからないのに仕事を辞め、大金はたいて日本に一緒について来た後も彼の態度は変わらなかった。

 

日本に住んで2ヶ月ほど経ったある日、急にキラキラした瞳で話があると言うので何かと思うと「僕は日本にカフェ&バーを作る」と言い出した。唐突すぎて驚いた。28年間カナダ人としてカナダで暮らし、日本語スキルもほぼゼロの状態。あの日からさらに2年ほど経っているけど、未だにその夢は変わっていない。

 

他にも思い当たる節が多々ある。貯金額がゼロでもレストランでは自分が一番食べたいものを食べるし、わたしが不機嫌でも子どもみたいにふざけて無邪気に笑っている。料理に夢中になると話しかけても無反応。家族や友人、わたしに対する見返りのない優しさ。

 

わたしがこれらの言動に対して「why?」と質問しても、答えは大体「さあね」か「だってそう思ったから」か「やりたかったから」である。それらしい理由はない。

わたしが質問したり悩みを相談したりすると、「考えすぎだよ」「大丈夫だって」などと言われる。「大丈夫じゃないから言ってるの!(怒)」と過去何度かなった。

 

 

こうして友人と1つひとつ遡って話をしているうちに、夫はただその瞬間の自分の感覚に従って行動しているだけ、つまりは5歳児なんだ!という結論に至る(以降会話中のあだ名は5歳児)。5歳児なので思い込みはない。何かをすることに恐怖もない。ただ根拠のない自信はものすごくある。ドラゴンボールの悟空とスラムダンクの桜木花道が今唐突に浮かんだ。強くなりたい。大切な人を守りたい。そこに理由はない。とにかくシンプルに生きている。そういうことなのだろうか。

 

よくよく考えると、2人のヒストリーの中で大半はわたしがひとりで勝手に悩み、考えすぎてどうしたらいいのかよく分からなくなって彼に相談し、「大丈夫だよ、心配するな」と言われてどうにか乗り越え、また悩み…の繰り返しだった気がする。完全にわたしの一人芝居であった。彼はただその時にできる彼のベストを尽くして、あとは自分の感覚に従ってやりたいことをやっていただけなのかもしれない。5歳児おそるべし。

 

 

 

 

 

 

彼がまっさらな5歳の少年だったことに気づいた後、でもそんな彼だからこそわたしと引き合って、今バランス良く夫婦仲良くうまくやれているのかもね、と話した。わたしは、今でこそこうして留学や国際結婚を経験してカナダでそれなりに暮らしていて、時折「行動力あるよね」「勇気あるよね」とか言われるけれど、小さい頃はとにかく慎重で人見知りな子どもだった。周りをただじっと観察して、目立った行動をしない子どもだった。今も正直ビビりで小心者なところは変わっていない。ただ前より少しだけ「なんとかなるさ」精神がついてきたな、とは思うけど。そういう自分の性格をどこかで分かっていて、自分にない部分を元々備えている人を選んだのかもしれないなと思った。逆に5歳児は危なっかしく熱中しやすい自分の傾向を無意識に理解していて、周りをよく見る慎重派なわたしを選んだのだろう。動物的感というのはほんとうにあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

なんじゃこりゃ、というまとまりのない感じになったが、話していて面白かったことのメモということで。とにかく楽しくやってます。

最近アフリカからようやく日本に帰ってきた高校時代の友人が、今秋トロントに来るとの連絡をもらった。しばらく連絡も取っていなかったし、会うとしても数年後に地元でだろうなとうっすら思っていたので驚いた。これもタイミングだな~と思う。そのあと弟たちも来るし。

 

楽しみだ。

スタートライン

 

 

おひさし。

 

 

彼の実家を出て、夫婦でアパートへ引っ越した。

やっと、やっと、やっと、、、!

この日をどれだけ待ちわびたことか。2人で住むのがやっとの小さいお部屋。金欠。だけど、そんなことはどうでもいいほど、今とても幸せだ。

 

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(新しいアパートから30秒の可愛いカフェ)

 

先日はたくさんの友だちが引っ越しを手伝ってくれた。お昼休憩で、うち1人が食べていたインドのサモサという料理が異常に美味しいと盛り上がり、夜また同じ店へ行って全員分テイクアウト。門出に乾杯、ということでお酒も少し買って夜みんなで飲んだ。何度も車で高速道路を往復したり、一日中重いものを運んだり買い物に付き合ってくれたり、みんななんて優しいんだろう。他にも夫の店のオーナーが大きなソファをくれたり、義妹がおにぎりを差し入れしに来てくれたり、妹彼氏(エンジニア)がベッドを目に余る速さで組み立ててくれたり。昨日は、心底わたしたちは人に恵まれてるなぁと思う一日だった。ありがたや。

 

 

一方、義理母とはなんとも気まずい別れ方をした。何度か登場してるので色々お察しかとは思うが、わたしにとっての引っ越しの第1目的は「彼女から離れる」ことであった。

 

病的な過干渉、ヒステリック(一度は警察沙汰になった)、家族という小さなコミュニティへの異常な執着。情緒不安定。ショッパホリック。ものを捨てられない、片付けられない。どこまでも悲観的で、過去や周りの人にしがみついて生きている人。

 

こういう人と1年半同じアパートで暮らしていたので、それは色々あった。思い出すのもぞっとするので省略するが、とにかく確実にわたしのメンタルに危害を及ぼしていて、ストレスで幾度となく悩み、泣いた。最終的には彼女の足音やくしゃみの音を聞くだけで、心に何か恐ろしいものが迫ってくるような脅迫感や嫌悪感が芽生えるようになった。わたしには距離が必要だった。

 

 

引越しの日に新しいアパートの掃除をしに来ると言い出したのでわたしは震えた。絶対に嫌だと思った。夫とわたしは、友達も大勢手伝いに来るし、来る必要はないと伝えた。

それで、怒った。わたしたちと口を聞きたくないという態度を小さい子どものようにあからさまに出していた。どこまでも自己肯定感の低い人なので、NOと言われることイコール相手からの完全拒絶と捉えるらしい。さらに攻撃してくる様子だったので、もうこれ、どうでもいいなと思った。今日は純粋に、この引越しを心から喜んで、そしてこれからはわたしはわたしの人生を楽しく生きようと思った。

 

 

 

引っ越しが全て済み、友だちもみな帰っていった。風呂あがり、新しいベッドに寝転がる。夫はもう疲れていびきをかいて寝ていた。いろんなものが込み上げてきて、涙が出た。2人で、新しい家で、誰に何を言われることなく普通に暮らせること。それがわたしにとってはほんとうに有り難く、ずっと望んでいたことだった。一緒に叶えてくれた夫、助けてくれた実母や友人たちへの感謝の気持ちでいっぱいになった。普通のことが、ほんとうに心から嬉しかった。ここが本当のスタートラインだ。もう、無敵。何でも乗り越えられる気がする。

 

 

 

 

 

 

そう言えば仕事も始めた。街の真ん中にある小さなレストラン。20年近く(トロントではわりと老舗)同じシェフが経営しているのと、単価が少し高いからなのか、客層はほぼ常連客かお年寄り、若い(といっても28〜35くらい)落ち着いたカップルばかりだ。昨日はゲイのおじいちゃんカップルが来ていてほのぼのした。

働いている人たちももう長い人がほとんどで、15年以上ここで働いていますという女性もいる。客と仲が良く、誰が何を頼むとかあの人のドリンクにはレモンを添えて氷なしとか、一人ひとり客の情報をみんなで共有している。時間がある時は席まで行ってとりとめのないことをずーっと喋っていたりする。かなりアットホームで落ち着いた職場だ。

日本ではあまり見ないな、という面白い光景もある。飲食店で働いた経験があれば分かると思うのだけど、店を閉めてもお喋りに夢中で全く帰らないお客さんというのがたまにいる。この店の人たちは全くそういうお客さんに対して催促しないし、席をチラ見しながら「早く帰れよ」的な視線を向けながら無駄に待ったりもしない。もう完全に放ったらかしにして、別のテーブルでさっさと賄いを食べる。そしてようやくお客さんが帰るという時にも席を立たず、食べながら「あ、じゃあねー!ありがとう。また来てね〜」という具合。そしてお客さんも「ここは賄いも美味しそうだね〜バイバーイ!」みたいな。

 

 

ゆるい。

 

 

だいたい夜遅くとも9時半には賄いを食べて10時には帰れる。

オーナー(じいさん)は「もうさ、夜は早く閉めたいのよ。帰ってゆっくりしたいでしょ。」と。

 

ゆるい。

このゆるさが好きだけど。

とにかく楽しくやってます。

 

 

 

 

このレストランの仕事とは別にデザインの仕事もいただいた。夫のベーカリーの店の内装に関わる大事な仕事。急にハードルが高いのきて、この前デザインの基本を始めたばかりで全てが手探り状態のわたしは正直かなりプレッシャーを感じている。でもこういう負荷を与えた方がわたしの場合はうまいこと行く、というのを自身もよくわかっている。うん。頑張るしかない。トライするチャンスをくれる人がいる、ということ自体がそもそもありがたいし、だからこそ全力で応えたい。

 

 

 

 

 

どんな状況に置かれていても、目の前にある小さな幸せに日々感謝しながら前向きに生きていれば神様は見逃さないらしく、最近わたし自身にも周りにもいいことがたくさんあった。

 

職場にも近い便利で安全な場所へ引越せたこと。夫の職場の契約事項が4月から一新され、月給もボーナスもアップ、働く頻度も減ったこと。家族からの思わぬ臨時収入。友人たちからの嬉しい報告。お祝いや差し入れをいただいたこと。などなど。

 

 

神様はと書いたけど、実際わたしが神様というもののパワーをものすごく信じているのかというとそういうわけではなく、わたしが自ら「意図的に」こういう思考の仕方を選んだ結果だと思っている。辛い現実にぶつかった時、それに振り回されることなく自分の軸を保つ方法、思考の癖(思い込み)を変えてポジティブに生きる方法などをここ1〜2年でいろいろ試してきた。だから分かったことがいろいろある。そういう意味で変換の仕方がうまくなってきたな、と思う。そういう風に生きていると、結果としていい現実がついてくる。これは逆も然り、というのも目の当たりにしてきたから、ほぼ確信している。

ここらへんのことについてはまた機会があれば別に書こうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本では桜が見頃を迎えている様で、お花見やピクニックの写真がよく目に入る。ところによってはもう桜は散り始めていて、いよいよ初夏の匂いがしていると聞いた。

 

トロントはというと、4月に入っても未だ吹雪いている。今日は太陽は見当たらず、コート、マフラー、帽子等を着込んだ人たちが通りを足早に通り過ぎて行くのが窓から見える。はやく暖かくなってほしいものだ。写真も撮りに行きたいし。

 

 

今年の春夏はきっと昨年以上に楽しくなる。

今回ははこの辺で。

 

 

 

 

つれづれ

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現在、ニューヨークへ向かうバスの中。

移動時間中ひまなのでなんか書いてみる。

 

 

なんでNY?

 

 

というのも先日、申請していたカナダの永住権がやっと降りたとの報告を政府から受け、最終プロセスとして国外に一度出る必要があったからだ。

プロセス上、配偶者である夫も同行せねばならず、仕事もあるので2泊3日くらいでひょいと行けるいちばん近くて手軽な場所がいい。それがNYだった。

 

2時間ほど走ったあと、国境で全員バスを降ろされ、入国審査と持ち物チェックを受けに小さな建物へ入る。入国の目的や泊まるホテルなどの簡単な質問に答え、指紋を取り、カードを記入して荷物を機械に通して終了。

アメリカの入国審査って厳しくてオフィサーもみんなムスっとして怖いんだろうなと勝手に思っていたが、夜9時すぎだったからなのか、同僚どうし雑談しながらゆるゆるとやっている感じだった。

 

「俺の18の息子、入国審査中にビビっちゃって母親に電話したの。そしたら応答放棄で逮捕されちゃった!みんな、審査中はママに電話しちゃダメだよ!」

とおじちゃん審査官。同僚全員爆笑。なんというかいい意味で拍子抜け。息子の逮捕は笑いごとなのか?という疑問はさておき、まあ尋問されて嫌な気分にされるということも全くなく平和に終わったのでよかった。

 

今は20分間の休憩で、ターミナル内にあるTim Hortons(カナダのコーヒーチェーン)でキャラメルマキアートを買って飲んでいる。はじめて飲んだけど激甘。

 

 

 

 

 

 

 

最近はいろんなことが一気に動き出して多少バタバタしていた。

準備期間を含めた約1年半を経てやっと永住権が取れたこと。永住権が取れたことで労働許可が出て(ほんとうに嬉しい)、つい昨日面接に行ったお店でお仕事をゲットしたこと。4月から夫と2人で住むのに最適な場所を見つけ、どうにか契約にこぎつけそうなこと。

 

節目というか、そういうタイミングの時ってほんとうに面白いくらいポンポンポンっと物事が決まっていくのが不思議。

 

あ、あとデザインの勉強(独学)はじめて2ヶ月しか経ってないのだけど、友人や夫繋がりでヨガのレッスンの告知や店のメニューをデザインしてくれと頼まれてちょこちょこ時間のある時にやっている。練習するチャンスをくれる人が周りにいるのはありがたい。パソコンや編集ソフトの扱い方に疎いもので、5分に一回くらいは「これどうやってすんの」→調べる→試す→うまくできない→さらに調べる・・・というようなことを繰り返しながら進めている。デザインってほんとに地味な作業の繰り返し。けれど実践を通して少しずつできることが増えていくのは楽しい。もっとチャンスをもらえるように、色んなところで言いまくろうと思う。

 

 

 

これはつい先週の話。いいことがあったので書き記しておく。きょうは思いついたことを書いているのでころころ話が変わります。

 

その日はなんとなく家にいても落ちつかず、何をしても脳がざわざわする感じがしていた。やるべきことは色々ある。でもなんか手につかない。ここ10日ほど、こういう、なんとなく家にいたくない日でもあれこれ理由をつけて自分を納得させ、家に1日いるというパターンが続いていた。 外寒い。今日は地下鉄のマンスリーパスが使えない(パスを義理妹とシェアしていて、彼女が使う日に外出したければ自分で交通費を払うしかない)。パソコンで作業したいけど運ぶにはデカいし重い。行ったはいいが席が空いてないと面倒・・・という具合。 結局やり過ごして、ざわざわやモヤモヤはそのまま残る。

 

 

この思考と行動のルーティンに気づいた瞬間、これはいけないと思った。この日はすぐさまパソコンをバックパックに詰め、メイクをし、Google Mapに保存してある中で今いちばん行きたいと思うカフェの位置と行き方を調べた。パソコンをカフェに持ち出すのは初めてだった。大学の入学時に買った今ではもう厚くて不恰好な、しかも画面が少し故障しているパソコンを担いでお洒落なカフェへ行き、Macで涼しげに作業する若者たちの隣に座るのは気が引けて、一度も今までやらなかった。単純に重いというのもあるけど。これはわたしにとって完全にnewな行動である。しかもこの日選んだのは(えいッと直感で)、わたしが3年もトロントに住みながら全く未開拓の地域にあるカフェ。無駄な思考が湧いてくる前にとにかく無心で準備し、家から5分ほどのバス停でバスを待つ。

 

 

 

このカフェがものすごくよかった。先月は例のごとく10ヶ所くらい新しいカフェを開拓していたのだが、それらを含めてもここがいちばん好きかもしれないと思うくらい雰囲気の良いカフェだった。店員はみなフレンドリーで、接客も丁寧。ドリンクを待つ間も全然退屈しなかった。うち1人は帰る直前にも話しかけてくれて、写真をやってるんだ、と自分が撮った作品を見せてくれたりした。しかもしかも、わたしが大好きなシリーズの紅茶の缶が全種類置いてあった(なかなか置いてるとこない)!!表の黒板にあるコーヒーメニューを眺めていると、「もしティー派なら、こっちのメニューもあるよ」と教えてくれた。ヘブンリー・クリームという名前の紅茶でラテを作ってもらった。このヘブンリー・クリーム、名前のみならず缶もピンクで上品で可愛いのです。しかも美味しい。

 

店内は広すぎず、狭すぎず、インテリアも温かみがあって落ち着く。常連やご近所さんがよく立ち寄るローカルなお店という感じだった。

初めてきたけどすごくいいお店だね、と伝えると、「もっと頻繁においでよ。次は君の写真も見せてほしいしね」と言ってくれた。帰りは西日が差していて気分もよかったので少し通り沿いを歩いた。 

 

歩きながら、じぶんの心の声を聞き、行動パターンを一新したことがこういうよい人や場所との出会いに繋がったんだなと思った。これまでウジウジもやもや家にいたことが信じられないくらい清々しい気持ちになっていた。同じ行動パターンを繰り返していると、結局その行動に見合ったことしか起こらない。それで幸せなら全く問題ないんだけど、心のどこかで「何か違う」と思っているなら(今回のわたしのように)パターンを壊すようなアクションを起こさないと望んでいるような楽しいことは起こらない。

そして、ちょっとした「ネガティブな気持ち」にもっと敏感になってみようとも思った。その時なかったことにしてやり過ごせても、またいつか同じ状況がやって来てそのパターンを繰り返してしまう。こういうのをスルーしないで気づくのとても大切ね、とおもう。

 

 

夜中になってしまった。

今バスはどこを走っているんだろう。

アメリカのどこかであることは確か(ボーダー越えたんだからそりゃそうだ)。

NYの旅の模様はまた次回書くとする。

 

 

新たに

今日、すんげぇ雪降ってる。

 

 

 

 

今年は50数年ぶりの大寒波らしく、先々週ごろまで−27℃前後の日が続いたりしていた。

 

−27℃と突然言われても、日本にいると想像しがたいかもしれない。

こちらでは皆けっこう実温度と体感温度を両方チェックしていて、例えば実際の温度が-27℃であっても体感温度は−36℃だったりするので、それに合わせて服装を調整する。体感温度は風の強さも考慮した温度らしい。風が強い日は体感温度も一気に下がる。 

 

そんな気候の中を歩いていると、鼻の中の水分が凍って膜を張ったようになったり、まつ毛が凍ったりする。手袋を忘れた日には「そのうち腐って切断しなきゃいけなくなるよ!」と言われたりもした。耳や顔の露出部分は冷たい、痛いを通り越すと感覚が麻痺してくる。脚が固まって動かなくなったこともあった。こんなに寒いのに路上で生活している人が大勢いて、冬の終わりに亡くなったホームレスの数が放送されると非常に心が痛む。

 

 

東京に住む弟たちからは、大雪の写真が送られてきた。今年はあちこちで寒波が到来した模様。仕事で人生初の雪かきを頼まれたという弟(南国育ち)は少々浮かれていた。

 

今年の10月に、弟たちがカナダへ旅行へ来ることが決まった。1番下の弟にはもう3年半以上会っていないんじゃないかな。最後に会った時はまだ高校生だった。総体の決勝を見に行ったのを覚えている。もうお酒が飲めると聞いて驚いた。夫ともようやく会わせられる。楽しみだ。

 

 

 

さて。

前年の末に振り返り記事を書いた。

今年は今年でまた新たな目標を決め、動き始めている。

 

その一つに「デザインに挑戦する」というのがあって、1月初めに基本のキを学ぶために何冊か本を注文した。何が美しいデザインで何がそうでないのか。誰が見ても「なんだか惹かれる」デザインは何が違うのか。というかデザインってそもそも何?どんな種類がある?。。。云々。

 

そう、完全にゼロからのスタートである。

 

昨日夫が「店の新商品のポスターを作って貼りたいけどやることが多くて手が回らない」と嘆いていた。わたしは「そんなことなら任せておけ」と張り切ってポスターを作り始めた。ここ一カ月ちょっとで勉強したことを実践するチャンスが急にやってきて心が躍ったのだ。ひょいと引き受けた。

 

深夜2時半、できあがったポスターを見て絶句した。

 

「ダサい」

 

・・・・・。

完成から秒数が増すごとに、眺めれば眺めるほどに、そのダサさが浮き上がって見える。なんか、COOLじゃない。撃沈した。雀の涙ほどとは言え、勉強したことを詰め込んでみたはずなのに。疲れたので寝てしまおうと布団に入ってからも、なんでダサいのか、原因をずっと考えていた。

 

言わずもがな、現在この失敗はわたしのなかで既に100%ポジティブなものに変換されている。完成直後こそ撃沈したけど。

今までだったら自分の作ったチラシのどこがダサいかなんて原因をいくら考えても分からなかっただろうし、そもそもダサいとも思わなかったかもしれない。教員時代に仕事で図書館のニュースレターを毎月出していたが、レイアウトを自分でも気に入っていたし、生徒が黒板に集まって読んでくれるのが嬉しいと思っていた。今あのニュースレターを思い出すと、装飾がごちゃごちゃして読みにくいし行はバラバラだし各号に一貫性はないし・・・といろいろ文句をつけたくなる。あの時には見えなかったものが今は少しだけ見え始めている。

 

布団に入ってから、「整列が悪かったのかな、いやコントラストが弱すぎ?フォントの組み合わせかな。そもそも写真はあれじゃいかんだろ!」と頭の中は大嵐だった。ふと我に返って、なんだ、わたし失敗したけどちゃんと前に進んでるじゃん。と。大嵐のあと、ゆっくりいろいろ考えていたら次のステップが少しずつ見えてきた。これをやりたいけどやり方が分からないから調べよう。もっと既存の美しい作品をたくさん見て自分の引き出しを増やそう。とか。未知の分野を自分の意思で掘り下げていく作業は、楽しい。自分にそれができるかどうか、ということはやってみるまで分からんので「あ、これ楽しそう」という自身の直感に従い、とにかく何にでも挑んでみようと思う。

 

 

 

デザインの勉強とは別に先月から始めているのが、

「毎週最低2か所、トロントの新しいカフェを発掘する」というもの。

ゆくゆくの目標は

「ローカルなカフェを紹介するマップを自分でデザインして配布する」

ことなのでデザインとも最終的に絡んでくるんだけど。

今はその準備段階としてトロントのいろんなカフェに行きまくっている。

 

トロントは本当にカフェの多い街で、コーヒー文化が根付いているなあと感じざるを得ない。モルティ・カルチャー故、コーヒーのスタイルも多彩。

ちなみにわたしは、マップを作ろうとしているわりにコーヒーの味に疎い。というかブラックコーヒー飲めない。いつもラテに砂糖を入れて飲んでいる。じゃあなんでそんなにカフェに行くのかというと、そこにいる人たちや空間そのものが好きだから。ホットコーヒーと焼き立てのベーグルが混ざった匂いや、いろんな人種、文化、ジェンダー、年齢の人達が自由に午後のお喋りを楽しんでいるその光景が好き。インテリアや照明、メニューの提示の仕方などがお店によって全然違うのも楽しい。コーヒーだけではなく、様々な種類のteaを試せるお店も多々ある。tea latteなんていう、日本にいる時は馴染みのなかったものも今ではすっかりお気に入りだ。

 

 

先日、家から一時間以上かけて行ったスモークサーモン・ベーグルのお店で食べた「The Fancy Fancy」という名前のベーグルが死ぬほど美味かった。吹雪いていて平日だったせいか、客はわたし一人。店員の女の子に「ここ、サーモンのベーグルが美味しいって聞いて来たんだけど」と言うと丁寧にメニューを説明してくれた。名の通りファンシーな一番具の多いベーグルを頼むことに。

 

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  これ、けっこうなボリューム。クリームチーズとスモークサーモンという王道の組み合わせに、細くて小さいもやし(アルファルファ・スプラウトというらしい)、ビーツを酢漬けしたもの、きゅうり、 ケーパー、ディルなどの野菜ががぎっしりぱんぱんに詰まっている。この組み合わせが絶妙で美味い。そういえばカナダはサーモンが有名なのです。かつてサーモンと言えば焼くか刺身かの二択だった。スモークサーモン最高。そして日本(西)よりチーズが美味い。ちなみに他のお店でもだいたいそうだけど、ベーグルの種類も選べる。上に胡麻、ポピーの種や麦などの穀物類をカスタマイズしてちらしたりもできる。

 

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 縦に長い店内に並ぶ小さいテーブルには、サボテンの鉢がそれぞれ置いてある。奥の席に腰かけて「あ~幸せだ」と脳内で叫びながらベーグルにかぶりつく。帰りに店員の女の子と少しお喋りした。「平日のこの時間は静かな時もあるけど、週末はすごいのよ」と言っていた。遠いけどまた絶対来るから!と意気込むわたしを「いつでもウェルカムよ!」と笑顔で送り出してくれた。

 

 

 

寒いけど、充実している。寒いけど。

 

 

 

 

 

 

いよいよ3月から2人で引っ越すことになった。今、ダウンタウンにできるだけ近くて手ごろな部屋がないか各ウェブサイトを毎日夫婦でサーフィンしている。 

それもこれも、以前から勃発していたちいさな家庭内紛争が今月初めついに史上最悪であろう大戦争へと発展し、「もう待てない」と確信したからだった。いろいろな問題は置いておいて、とにかく速攻出ると決めた。夫も同意してくれた。喧嘩の主たちは、その日完全に頭がおかしくなっていて、その光景を見た時わたしは「おねがいだから精神科へ」とほぼ祈るような気持ちで見ていた。日々流れてくるどす黒い煙を無意味に吸い続けるのはもうごめんだ。わたしの人生まで破壊される前にとっととここを出なければ。

 

この状況なので、わたしは過剰に「自分を守り、スペースを保ち続けること」を意識せざるを得ない。「自分が自分であり続けること」をこんなに困難に感じたことはない。ひとりひとりの価値が尊重されてきたわたしの家族の方が稀で、とんでもなくラッキーだっただけなのかと思う時さえある。間違いなく普通ではない環境だと認知していても、わたしは大丈夫だからと信じていても、心は確実に蝕まれる。蝕まれないように、と逆らうことに莫大なエネルギーを使う。こんなのほんとうに無駄だと思う。

 

でもわたしには救いがあった。夫が一番の理解者であろうと努力してくれること。日本にいる家族がわたしのことを大切に思ってくれていて、いつでも支援すると言ってくれること。それからわたし自身が、自分ならなんとかなるという根拠のない自信を持てるタイプの人間であること。こういうことを見逃さないで、きちんと感謝する。あとはとにかく自分のやりたいことにフォーカスして他人のことは放っておく。

 

ここ数年でメンタルがだいぶ鍛えられております。もう一回りマッチョになろう。

 

 

夢の新婚生活(ついに)。あと、永住権ももうそろそろなので働けるようになります。嬉しい。

わたしがようやく本当の意味で自分の人生に集中するタイミングが来たな、今年だなと思う。やっとステージにのぼれた。いきます。

 

 

 

あ、それ才能です。

他人の言動に対して苛々したり、もどかしさを覚えたり、「なんで?」と疑問に思ったりすることって誰にでもあると思う。

 

 

例えば、すぐ道に迷う人。知らない土地で、旅行先で、というわけでもないのにとにかくいつも迷っている人。住んでいる街の中、なんなら何度も来たことがあるはずのショッピングモールの中でも迷う。迷って待ち合わせ時間に遅れてきたり、違う場所に行ってしまったりする。

 

こういう人たちは、地図が読める人や空間認知能力に長けている人からすれば理解不能である。なぜ毎度迷うのか、分からない。ここ、この前来たよね?この街住んで何年目?いや、さっき来た道引き返すだけじゃん!!

・・・・・・・・・・

 

 

「難なく目的地に辿り着けてしまう人たち」には、すぐ道に迷ってしまうの人の気持ちがよく分からない。そんな人を見ると「あ~もう!」と心の中で叫んでしまう。なぜなら彼らにとってそれは当たり前で自然にできてしまうことだからだ。

 

 

 

 

 

 

先日たまたま読んだ記事にこんなことが書いてあった。

 

  • 「他人に対してもどかしさを感じる瞬間」にこそ、自分の才能を知るヒントがある。
  • 「あなたが無意識に出来てしまっていること」=あなたの「才能」である。
  •  あまりにも自然に出来てしまうから、自分にとっては当たり前でそれが才 能だと気づかないことが多い。 

 

 

なるほどな~と思い、自分の場合について少し掘り下げて考えてみた。

 

補足:「才能」という言葉を聞いて「プロ野球選手を目指せるような投球スキル」とか「画家として食べていけるような芸術のセンス」なんかを思い浮かべる人もいるかもしれない。だけどわたしは「才能」は直接的にそのスキルが職業に生きてくるもののみを指すわけではないと思っている。人はいろんな種類の「得意なこと」をたくさん持っていて、それらを磨いて組み合わせることで自分のオリジナルな価値を世界に与えられるのかなと思う。だから「愛嬌がいい」も「掃除が得意」も「ワインの味に詳しい」もぜんぶ立派な才能。そういうニュアンスの「才能」で読んでいただければ幸い。

 

「わたしはどんな時に他人に対してもどかしさを感じるのか?」

以下。

 

・人が何を言いたいのか、何をして欲しいのか察することができない人

 ・他人の興味深い話を聞いても「でもわたしはこうだから」と開き直って吸収しようとしない人 

 ・文章がありきたりであまり感動が伝えられていない人

  例: この前行ったカフェがめっちゃ可愛くて超やばかった〜!癒された♡(SNSなどでよくみる) 

 ・怒りをコントロールできない人 

 ・物が散乱した部屋に平然といられる人

 ・何度同じ曲を聴いても音程が取れない人

 ・人が集まる場所で、携帯ばかり気にして人と積極的に関わろうとしない人

 

etc....

 

こういう人たちが善い悪いという話ではなくて、ただ「自分はこう感じている」ということを客観的に知ることで、自分の隠れた才能に気づけるというのがここでのポイント。

 

 

 

このもどかしポイントたちをわたしの長所、才能として書き換えてみると。。。

 

・人の言動を観察して気持ちを汲み取り、その人に合ったアプローチができる。

 ・他人の話を素直に聞いて、新しい知識やその人の良いところを吸収できる。

 ・どうしたら伝わるか?を考えながら文章を書くことができる

 ・自分を穏やかに保つ方法を知っている。物事を冷静に論理的に捉えられる。

 ・人や自分が気持ちよく過ごせる空間になるように整頓したりレイアウトを工夫したりできる。

 ・人の声や音を聞いて記憶し再現する能力がある。

 ・コミュニケーション能力が高い。

 

 

という感じになるか。

今まで人生で幾度となく「あなたの長所はなんですか」と聞かれていろいろ答えてきた。けれど面白いのは、それとは全然違うことがけっこう交じっている。これを書き出してみて初めて「これ才能だったのか・・・」と知ったものもあった。自分が「がんばらなくても当たり前にできること」「自然にできること」に人はわざわざ注目しない。でも、それが自然にできない人も世の中にはいるのだ。それはその人が自分より劣っているからではなくて、たまたま得意な分野が違うだけ。

この「もどかしさを感じるポイント」とは人によってかなり違うと思う。だからわたしのリストを見てピンとこなくてもそれが普通です。一回やってみてほしい。いろいろ発見があるよ。

 

 

ちなみに最初の例の「道にすぐ迷う人」というのはわたしである。

言われた場所と違う場所に行ってしまって待ち合わせに3時間遅れたこともあるし、コンビニに入って出る時にはどこから来たのか分からなくなったりする。今はずいぶん便利になってGoogle Map等で事前に道順を調べて行くなどの努力はするものの、やはり「どこにいても難なく目的地に辿り着ける」という境地にはほど遠い。

わたしは「誰かが道に迷う」ことに対してイライラしたり「も~!」となったりはしない。だってわたしもできないし。多分、「すぐ道に迷う人にいらいらする!」って人は、自分は何も考えなくてもできてしまうから理解できなくていらいらするんだと思う。それ、あなたの「才能」ですよ、ということ。いやあわたしもその才能欲しいっす。

 

 

この記事でいいな、と思ったのは

 

1.自分の意識してなかった才能を発見できる。

 

というのとさらにもう一つ、

 

2.「イライラ」「もどかしさ」「理解できない不快感」というネガティブな感情が出てきた時に「あ。今、も~!(怒)ってなってるってことは、これはわたしの才能なんだ。」とポジティブな事実に変換してしまえるということ。

「これはわたしの才能で、この人にはたまたまそれがないだけなんだな」と相手を受け入れられるし、そうすると「あなたが苦手ならわたしが補って助けてあげよう」という行動にもつながり得る。

 

違う言い方をすれば、才能は「役割」かもしれない。みんなそれぞれ得意分野があって、分業してるだけなのだ。100人の村で100人とも狩りが得意でも、誰も調理の仕方を知らなかったらみんな飢え死にする。そこに優劣はなくて、全員得意分野が違うからこそ世界は成り立っている。

 

もちろん、苦手なことを少しでもできるようにしようとする努力は時に必要。それによって自分が生きやすくなるならば。

けれども。例えばですよ。わたしが今からエンジニアになるために嫌いで苦手な物理や電気や機械について多大な労力を費やして勉強すれば人並みくらいにはなるかもしれない。でももともとそれが好きで得意な人たちは、わたしの10倍の速度で学び、そこからさらに技を磨く。嫌々学んだ人並みのわたしと、情熱を持って技を磨いた彼らが世に与えられる価値の大きさは言うまでもない。

 

自分の得意なこと=才能を磨くプロセスはやっていて楽しい。楽しいから努力も自然とできるし、だから成長速度が何倍にもなる。人の幸福感は「誰かの役に立っている」と自ら実感することで生まれるから、自分の才能(役割)を見つけて磨き、それを世界に還元することが結局は自分の幸せに繫がる。

 

わたしは今回自分の新たな才能をたくさん見つけ、認識できた。見つけたからには磨かねばならぬ。

 

「これらをどう伸ばし、どういう形で人に与えるのがベストか?」

 

 

・・・・考え始めたら目が冴えてきた。

最近の悩みは夫のいびきがうるさくて眠れないこと。ここ数カ月仕事が忙しくて疲れているらしい。今もやっぱりゴーゴー言っている。この悩みを彼の親友に打ち明けたら、「That's life.」(人生そんなもんよ)と言われた。そういえば奴もいびきひどいんだった。聞く相手を間違えた。

 

 

風の音が聞こえる。

窓の外を見ると、さっきの吹雪であたり一面真っ白になっている。砂糖のように表面のあちこちがキラキラ光っていてなんともきれい。

明日もいい日であれ。

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