最近考えていること





最近考えていることがある。



ここ最近の自分がさっぱり冴えなくて嫌いだった。今は抜け出してめちゃくちゃハッピー!というわけではないものの、すこし俯瞰して自分を見られている分ほんの少しだが前進した気がする。自身のために文字に起こしてみる。
(今回ある心理学の本をもとに思考しているので読んでいない人にはなんのこっちゃらという感じだと思う。プラス、完全に自分の頭の整理のための記事なのでそこは悪しからず。)


「嫌われる勇気」に引き続き、「幸せになる勇気」を読んだ。アドラー心理学実践における現実的・具体的な疑問に答えつつ、その方針が提示してあった。
「嫌われる勇気」では、人へのアプローチの仕方について「人に対して、行為レベル(その人が何をしたか)ではなく存在レベル(その人がそこに存在していること)で感謝する」ということが述べてある。「幸せになる勇気」ではさらに人間関係構築の入り口は、尊敬であり、尊敬とはありのままにその人を見ることである」とある。


・尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。

・尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである。

・彼らが変化する保証はどこにもない。(中略)まず「あなた」がはじめなければならない。いっさいの条件をつけることなく、どんな結果が待っていようとも、最初の一歩を踏み出すのは「あなた」です。


これについては理解、納得はしたものの、実践できていない。というよりも、ある人物(仮にKとする)に対して実践を自ら放棄していた。日々、特に最近、わたしのKに対する嫌悪感は強まっていて、足音や声を聞くだけで反射的に嫌な気持ちになってしまう。本心を言えば、出来るだけ関わりたくないと思っている。今の状況下では関わりをゼロにはできないのだけど。

出会った当初はKの不幸な境遇を理解し、共感し、狂気的な行動等に対しても寛容であり続け、過度な干渉にもある程度応えて来た。出来ることならKが変われるようにサポートしたいと本気で思い、色々試した。


けれど今、人間関係の入り口であるはずの「尊敬」自体を放棄している。「存在レベルで感謝」していない。トライすらしていない。
仮に今わたしが教員として教壇に立ったとして、クラスの生徒全員をここでいう「尊敬」という態度をもって接する努力をするか、といえば、全力でする。その意志とエネルギーがある。わたしの働きかけによって、子どもたちが人生に立ち向かう勇気を獲得できる(可能性かある)のであれば、精一杯トライする。


結局のところ、わたしはその対象によって尊敬するか否かを変えていることになる(よろしくない)。目的論で言うと、「わたしはKと関係を構築したくないがために(目的)、尊敬という態度を放棄している」ということになる。目的はいつも先に来る。


わたしの疑問

:わたしは自分に多大なストレスや負荷がかかろうとも、相手が変わるかどうかが分からなくても、Kを含めすべての人を「尊敬」し、存在レベルで感謝出来るような努力を、本当にしなければならないのか。

:それとも、自身の今この瞬間の幸せを優先し、存在自体に嫌悪感を抱いてしまうような相手は思い切って自分の人生から距離を置き、無関係な場所で一緒にいて幸福だと思える人々と共に人生を歩めばいいのか。

:もしくは↑この2つのバランスを取って人と接するのか。 (バランスを取るのは難しい気がする)


もちろん、理想はいちばん上なんだろうけれど。人によって使い分けるものではないし、これを突破口にしてあらゆる他人と横の(対等な)関係を築くことが出来るようになるかもしれない。










これとはまた別に、承認欲求や貢献感について考えていた。

わたしはVISAの関係等でかれこれ2年近く仕事をしていない。職場というコミュニティを持っていない。夫の家で彼の家族と暮らしているが、この家族への所属感もあまりない。友人はいるけれど、 出かけて楽しむだけであまり深い話はしなかったり、留学生とは仲良くなっても結局いっとき経つと自国へ帰ってしまい、毎回寂しい思いをする。


仕事をしていないので時間は無限にある。本を読んで学びを得たり、写真を撮りに行ったり、何か小さな新しいことに挑戦してみたり。最初の1年くらいは楽しかったように思う。
しかし時間はあるけどお金はない状態が2年近く続いている今、精神状態がどうも不安定になって来ている。わたしはあまり感情的なタイプではなくて基本常に平穏なのだけれど、最近波が激しい。やらなければいけないことがすぐ出来ずに後回しにしたり、それに罪悪感を抱いたり、学びを得た後に意気込んで新しいことを始めても続かなかったり、ちょっとしたことで心が折れたりしている。
最近夫の出勤に合わせて早朝に弁当を作っているのだが、何度か寝坊して作りそびれ、ひもじい思いをさせた。そんな自分が嫌になって泣いた。自分でも驚いた。夫は怒らなかったし、「眠いよね、いつもありがとう」なんて言ってくれる時もあったのに、そんな優しい言葉も全く慰めにならずさらに泣くはめになった。


なんでそんなことになったのかと考えた時、ひとつは自身への劣等感があると思う。ここでわたしが感じている「劣等感」は、誰かと比較して自分が劣っている感覚というよりも、「理想の自分」に到達出来ていない現在の自分に対する劣っている感覚という方が正しい。無数の「わたしはこうなりたい」という欲望や目標、「理想のわたし」を掲げながら、それが達成できていないことに対する焦燥感や苛立ち。この無職期間にいろんな本を読み、いろんな人や生き方に出会い、「わたしは将来こんな風になりたい」「今すぐにでもこうしたい」というワクワクした気持ちが膨らんでなんでも出来るような気になった。小さな挑戦を繰り返してはやめ、繰り返してはやめ、その度に目の前に転がっている現実を目の当たりにし、そのギャップに落ち込んだ。


これはわたしが、他人以前にわたし自身を存在レベルで受容していない、ということである。つまり「普通であることの勇気」が足りていない。自分はここにいるだけで価値があり、誰かの役に立っている、と思えていない。今回身をもって気づいたことは、これは他人に承認されることで満たされるものではないということ。周りにはわたしを役立たずだと罵る人はいないし、夫は毎日「側にいてくれるだけで十分だ、ありがとう」と伝えてくれているのに、尚自分に価値を見出せないのはなぜか。それは、じぶんが誰かに貢献しているという感覚「貢献感」はわたし自身の主観によって得られるものであって、他人に承認されて満たされるものではないからであり、今現在わたしは自分が役に立ってないと思い込んでいるからである。



なんてこった。(書いていてびっくり)逆に言えばわたしが自分の存在価値を認めて、普通である勇気を持ち、いまここを一生懸命生きればいいのだ。だって幸運にも、わたしの大切な人たちはわたしに存在レベルで感謝してくれているんだから。あとはわたしが変わるだけということ。

さらに、人間の幸福=貢献感ということから言えば、 仕事ができないにせよ人に何か与えられることを始めるといいのかもしれない。今は理想ばかりでそれがきちんと形に出来てないから悶々としている状態なのだ。目に見えた形であってもいいし、なくてもいいのかもしれない。例えばわたしの特技のひとつは人の話を親身になって聞くことなので、それだけでも貢献感(幸福)には繋がる気がする。友達の話をカフェでただ聞いている→わたしは友達が自由に話してリラックスしたり、ストレスを解消したりする手助けをしている(貢献感)。というふうに。本当に、これはぜんぶ自分がどう意味づけするかですね。





こんなことについてあれこれ考えていた。人に言わせれば「そんなに深く考えなくても。」ということなんだろうけれど、わたしにとってこれは重要課題であり、おそらくまた作中の青年のように少しずつ前進しながら、その都度新しい悩みと向き合いながら、わたしなりに歩み続けるのだと思う。

「写ルンです」でトロントの夏を撮る。

現像を頼んでいた「写ルンです」の写真データが届いた。



:Scarborough



:Ontario lakeから望むToronto city。この時間帯の空×水辺は最高。


写真データをDropboxでシェアする形で、1週間ほどで出来た。データではあっても、久しぶりに目にするフィルム写真に予想以上に心が躍る。
この独特の味がいい。フィルムならではのツブツブ感、色味、滲み出るノスタルジックな空気がたまらない。






そもそも数ヶ月前、溜まっていた家電屋のポイントを利用して半ばノリでinstax-mini8(いわゆるチェキ)を購入したのが始まりだった。
普段はデジタルカメラで人や町並みを撮っているのだが、instaxを買って以来撮影やお出かけ時に鞄に入れて持ち歩くようになった。
何度でも撮り直しのきくデジタルカメラとは違い、フィルムカメラは一枚一回きり。しかもinstaxは1つのフィルムで10枚しか撮れない。シャッターを押す前の数秒、よしここだ!という瞬間までいろんなことが頭をよぎる。いい意味で躊躇する。この「間」が楽しかった。


今春夏はポートレート撮影のため、デジタル一眼と共にトロント市内を歩き回り、様々なバックグラウンドを持つトロントニアンたちを撮っていた。当たり前だが、撮影の日はカメラ本体・レンズ数本・三脚、と重装備である。撮影中はと言うと、ライティングは、カメラの設定は、モデルへの指示は、と常に頭はフル回転。撮影後はどっと疲れが出る。


その点、このinstaxmini、電源を入れて適切な明るさを点滅表示で確認し、そこにセットしてシャッターを押すだけで写真が撮れる。しかもその場で出てくる。撮影後の編集もない。世界を見渡し、切り取りたいと思う瞬間をただ切り取ればいいだけだ。このシンプルさが、思いのほかわたしの心を自由にした。撮影続きで頭の中がぎゅうぎゅうになっていたのだと思う。何もない天気の良い休日はinstaxが活躍した。
ラベンダー畑、遊園地、港、神社、海、友人との食事、結婚式。どこにでも持ち出して思うまま感じるままに写真を撮った。



こうしてフィルムの魅力に気づき始めたわたしは、写ルンですを手に入れた。 8月に日本から戻って来てしばらくたったある日、妹がくれたのだ。中学校の修学旅行以来の、写ルンです。ピリピリと封を切ると、懐かしいフォルムがでて来た。未だに、裏に名前を書く欄がある。フラッシュボタンを上に上げると、チュイーンという音とともに四角い部分が赤く点灯する。撮影するまで巻いてはいけない(シャッターが軽くてすぐきれてしまうため)とは知っていても、このジャリ、ジャリという指の感覚が爽快でつい巻いてしまう(結局それで2枚ほど没にした)。

丁度いいタイミングでトロント・アイランドへのピクニックのお誘いを受けていたので、ポケットにつっこんで一緒に出かけた。
そう、このポケットに突っ込める、バッグにポンと投げこんでおける感じ。使いたい時にサッ。カシャッ。ポン。この手軽さがいい。デジタル一眼を持ち歩く時はそれなりのバッグにそれなりの保護をして入れて置かねばならず、重いし、取り出す際いちいち気を遣う。
写ルンですの、ポケットに入ってることすら忘れるくらいのライトさに、なんだか気持ちまでも軽くなる。
この日は天気も良く、まさにピクニック日和だった。


: 湖に突き出た橋の先で。




: 望遠鏡を覗く少年。この望遠鏡、古くてメタリックでいい感じだった。




: 島を去る前に船の上からもう一枚。




: 街中でも写ルンです。トロント市庁舎前。




ストリートカーのある風景がすき。最近言われて気づいたけど、トロントは赤いものが多い。



夏のトロントは非常に気持ちがよい。湿度が低くカラッとしていて、特に湖の近くは風が心地よい。冬が長く厳しいトロントでは、人々は春夏になるとここぞとばかりに外に出てその喜びに浸る。春先に動植物が冬眠から覚めてみな一斉に活発になるのと同じように、暖かくなると一気に街のハッピー度が上がり、用はなくてもとにかく外に出て何かしたい気分になる。真夏は夜9時ごろまで明るいので、遊びに夢中になっていたらもうこんな時間、なんてこともよくある。


今年の夏日本に帰って感じたのは、湿度が尋常ではないということ。湿度と汗で身体全体の皮膚が呼吸困難になり、シャワーを浴びるか涼しい場所に避難してさらさらシートで全身を拭くかしない限り一日中ベタベタがつきまとう。気づけばカナダでの生活が長くなればなるほど、「日本の夏、無理だ。。」となっている自分がいる。冬は日本で、夏はカナダで暮らすのがベストだなと思う。できれば将来はそうしたい。


例年になく、つい先日まで半そでで外を歩けるほど気温が高かったトロントだが、さすがに最近少し肌寒くなってきた。カナダの国旗の象徴であるメープルをはじめ、あらゆる種類の木々が色づき始めている。先日また新しい写ルンですを入手したので、早く紅葉の美しいハイキングコースを見つけて撮りに行きたい。

ギフトカードって、イイ

先月の誕生日に、数名からgift cardというものをもらった。

ちなみにギフトカードというのは、メッセージを書いて贈る紙製のカードのことではなく、特定の店舗で使えるカードに贈り主の意思で一定の金額を振り込んでプレゼントするというもので(ご存知だろうが一応説明)、個人的には日本ではあまりもらったりあげたりする機会のなかったものである。Starbucksと、LCBO(トロントの酒屋)のギフトカードをそれぞれ男性の友人からいただいた。














気づいてしまった。
ギフトカードって、悪くない。
全然悪くない。むしろ、とてもイイ。




どうしてだろう、ギフトカードってなんだか素っ気ないイメージがあったのだ。お祝いの場で「ギフトカード、はい」ってちょっと手抜きしてる感が出るような気がして、今まで自分ではやらなかった。もっとこう服とか小物とか、「あなたのことを想って選んだの」風が伝わるプレゼントの方が、グッとくるんじゃないかと思っていた。


しかし突然もらう側になった今回、これが、意外と嬉しい。
酒屋のギフトカードを貰って以来、土曜に街中の酒屋に立ち寄っては毎週違う種類のビールを数本買い、週末飲み比べ大会をしている。楽しいし美味しいので、写真を撮ったり(日本に比べ種類の多さはもちろんパッケージも洒落ている)、味のメモを取ってみたり、気づけばほとんどプチ趣味的なものになっている。


これは、自分で普通に買うのとはちょっと違う。
一定の金額内で一時的に楽しむという点で非日常感が増し、ワクワクする。小学生の時、遠足前日に100円玉数枚と共にお菓子売り場に放り出され、「さぁ、何でも好きなもの買いなさい」と言われたときのあの高揚と似ている。あれの大人版である。


さらに、物理的な"もの"でないところがよい。

ものというのは厄介で、どんどん増える。私はものが増えるのがあまり好きではない。というか、年を経るにつれ好きでなくなってきた。昔は不必要なものをやたらコレクトしては満足していたような時期もあった。けれど今はできるだけ身軽でいたい。物欲がない訳ではない。今でも服や食器や本は好きだ。ただ買い物は1人で行くことが多いし、買う時はものすごく選んで買うので、これをプレゼントを選ぶ側に立って考えてみると我ながらとてもめんどくさい(ごめんなさい)。

そして、店舗にもよるが最近は可愛いギフトカードも多い。今回頂いたスターバックスのものはデザインが秀逸で美しく、財布にあるだけで気分がいいのでとても気に入っている。



こうなると、ギフトカードを贈るということは味気なくも素っ気なくもなければ、手抜きでもない。特に今回は男性2人から頂いたという事を考えると、一周回って気が利くし洒落ているとさえ思えてくる。思うに男性が恋人以外の女性へ物を贈るというのはけっこう難しい。下手に慣れないブティックや雑貨屋を探し回るより、相手の好きなものをある程度考慮して素敵な柄のギフトカードと共に「これでなんでもあなたの好きなものを。」と小さなメッセージを添えて渡せば、相手は(少なくともわたしは)十分に嬉しい。もちろん、お酒の飲めない人に酒屋の、ゆるふわ森ガールにZARAのギフトカードなどはナンセンスなのでそこは渡す相手を考慮する必要があるが、それはさほど難しいことではないはずだ。



補足。中には人の欲しいものを言われずとも把握していて、ドツボのものをプレゼントしてくるセンスのいい人もいる。実際今回、撮影用の万能リフレクターをくれた友人がいた。まさにわたしの欲しかったものだった。こういうものは使う時のことを考えるとわくわくするし嬉しい。その時その時何が欲しいかというのは変わるので、本人とある程度密な関係でなければならず、その点では難易度は高い。
さらに補足。別のパターンで、全く予想だにしていなかったものをくれる人もいる。これも楽しい。自分では買わないものをもらうと、それを使うことによって未知の体験ができるのを想像し、これまたわくわくする。

結局、人様から何かをいただくという時点でありがたいし嬉しいのだけれど、何が言いたいのかというとわたしのギフトカードへの勝手なマイナスイメージが今回一気に払拭され、新たな発見と喜びを体験できて万歳!と、いうことなのだ。(長々とスミマセン)もうすっかり「いやあ、ギフトカード、イイね。」となっている。



ちなみに、日本の事情はよく分からないが、こちらカナダ・トロントではギフトカード文化なるものがわりと浸透しているように感じる。わたしは自分がもらったのは今回初めてだが、しょっちゅういろんな場面でプレゼントされているのを見かける。多くの店舗では季節や時期によってカードのデザインが変わるので、それを楽しめるのもよい。ギフト絡みでもう一つ、「プレゼント用です。ラッピングお願いします」と言ってその場で無料で包装してくれる店舗というのは、ほぼない。というかそういう習慣自体がない。買ったものをそのお店でもらえる紙袋等に入れてそのまま渡す、というのが普通だ。もしくは自分で包装紙を買って包む。なので日本の店舗でのそういうサービスは(環境に良いかという問題は置いて)純粋に嬉しい。




今、文字を打ちながらビールを飲んでいる。フルーティなビールをよく飲む。グレープフルーツ味が爽快で好きだが、今回はストロベリーにしてみた。
来週また、違う種類を試してみよう。遠足のおやつを選ぶこどもに戻った気分で、リカーショップへ向かう。

カナディアン兄妹がみつけたクール・ジャパン

妹が帰ってきて半月ほど経った。
日本に行く直前にボーイフレンドと別れたばかりだったが、もうさっさと新しいのを見つけている。





ところで、今回妹と一緒に日本の夏を過ごしてみて改めて感じたことがある。外国人から見た日本というのは面白い。
彼らのカメラにある写真を見ると、どうして撮ったのかわからない被写体の写真がよくある。
一緒に出歩くと、変なものに目を輝かせる。面白いので、その度になんで?と聞いてみる。

夫が去年来日した際に一番初めに撮ったものは、自動販売機だった。アメリカ人の友人、ブルース(仮名)は白い軽トラに積まれた藁の山を撮っていた。

ここらでカナダ人の夫とその妹が発見した「クールなジャパン」の中から、「へ~」となったものをリストアップしてみる。


(夫の場合)

  • 軽自動車

ラパンやタント、ムーブなどといった日本の軽自動車。「小さくて形も色も可愛い!おもちゃみたい!」らしい。
カナダの車は高級車以外は色もデザインもなんだか平凡。毎年雪が大量に降るのでほとんどの人は定期的に洗車したり磨いたりしない。

  • 喫煙ルーム

空港や駅などでよく目にする喫煙者専用の部屋。なぜみんな集まって吸うのか。外に出て吸えばよくない?気持ち悪くない?ということらしい。
ちょっと同感。あまりにも異様なので夫はそれを『Smoking room』ではなく『Cancer(癌) room』と呼んでいた。

  • コンビニのフェア

某コンビニエンスストアでおにぎりを二つ買ったら、レジでONE PIECEのクリアフィルをもらったらしく「???」となっていた。
おにぎりを200円分以上買うと一つ無料でギフトがもらえる、みたいなフェアが定期的にあるのだと説明すると「日本のコンビニ素晴らしすぎる!」とその後それだけのためにコンビニに通い詰めた(ワンピース観たことない)。

  • 缶コーヒー

わずか120〜130円で買える缶コーヒー。種類も豊富。美味い。トロントでコーヒーとなると、Starbucksなどのチェーンもしくはローカルなコーヒー店まで足を運び4〜6$払ってゲットするしかない。彼のお気に入りはBOSS微糖。

  • 焼肉屋のコンロ

チェーンの焼肉店へ行った時のこと。肉を焼き始めて煙が出てこないのに気づき、「煙は全部下に吸い込まれるようになってるんだよ。」と説明すると、「Wooooo that's so cool!!!」と食べる前からテンション⤴︎。国産ではなくオーストラリア産の肉だったが、味も最高!と大絶賛。ハイテクジャパンの印象が一層強まったそう。

  • ゴミ箱がない

日本は街中にゴミ箱がほとんど見当たらない。彼の育ったトロントの街には、数十メートルおきに公共のゴミ箱が設置されている。にもかかわらず日本の方が道にごみがなくクリーン。日本人の身体には『ごみは持ち帰るもの』という感覚が染みついている。

  • 家庭用トイレ

日本の家庭用のトイレの上部には、大抵小さなパイプが付いていて流した後にそこから水が出るようになっている。「まさか流した汚物がこのパイプから出ているのでは…」と思ったらしく心配そうに聞いてきた。

  • ゆるキャラ

各県にゆるキャラというものがいて、それが地域を盛り上げるために歌ったり踊ったりPR活動のためにイベントにおもむいたりしている。大人も子どももそれらを可愛がり応援する。夫「日本人ってやっぱり変だね」。

  • アニメの威力

コンビニにアニメ。パンやお菓子のパッケージにもアニメ。終いには警察庁から出ている万引き防止のポスターもアニメ。アニメ文化浸透度とその威力にWOW。

  • 飲み放題食べ放題三千円

飲み物も食べ物も好きなだけ食べられて30$(3000円)代という日本の居酒屋のコスパの良さ。外食代が高くつくカナダの人たちにとってはまさにヘブン。カナダには『All you can eat』いわゆる食べ放題の店はあるが、飲み放題というものはない。飲み物は種類にもよるがだいたい一杯約7~8$(700~800円)はする。しかもそれに消費税13%+チップ(最低でも合計金額の10%)が加わる。体格が良くよく食べる夫は特にこの制度にはものすごく感謝していた。

  • ヴァンダリズム

「日本にはヴァンダリズムがない」と夫。もちろんなくはないだろうが、他の多くの国々と比べて、美しいものや文化的なもの、公共のものを守ろうとする人々の意識は高い。そういう風に教育されているからだと思う。
(ヴァンダリズムとは-ヴァンダリズム - Wikipedia



(義理妹の場合)

  • アイスクリーム

コンビニやスーパー、薬局などで売られている100円前後のアイスクリーム。種類がとにかく多い上に安い、美味い、パッケージが可愛い。近所の大きなドラッグストアのアイスクリームコーナーへ連れて行った際、店奥からずらーっと並ぶ冷凍庫とその中にこまごまと陳列されたアイスクリームたちに一瞬で目を奪われ、5つも買って店内のベンチで試し食いしていた。トロントでアイスクリームを食べるには、アイスクリームの専門店で4~5$出すか、フードトラックで売っている甘々でチープな味のものを、それも2~3$出して買うしかない。

  • 100円均一店

ダイソーやSeriaなどのいわゆる『100均』に興奮し、初日から8千円も使ってしまった義理妹(愚か者)。ちょろっと覗くつもりが4時間半も買い物に付き合わされた。どうやったら100均でそんな膨大な時間と金を費やせるのか私たち日本人は理解に苦しむが、彼女のような外国人観光客の間では珍しくないらしい。彼女は主に文房具やキャラクターものの雑貨、旅行用のバキュームバック等の便利グッズを購入。

  • 女子が可愛い

来日の際、関空から伊丹へ移動したという彼女からメールがきた。恥ずかしさのあまりトイレに駆け込んだというので理由を聞いたところ、「空港にいる日本人の女の子たちが可愛すぎて眩しすぎて、髪ぼさぼさ&すっぴんで歩いている自分が恥ずかしくなり、いそいでメイクをしに走った」という。その後の日本滞在中にも2人で街中を歩いたりしていると何度も「日本人はすごくおしゃれで可愛い!!」と繰り返し言っていた。もちろんおしゃれを心から楽しんでいる可愛い日本人女子はたくさんいる。しかし日本社会の外見へのExpectation(期待度)が高い故に「めんどくさいけどマナーだから嫌々」やっている女子が多いのも事実。カナダでは『個人は個人』なのでわりとみんな他人の外見に無頓着だし、『すっぴんは恥ずかしい』という概念がないため、とくにパーティなんかの特別な場合でなければ平気で街をすっぴん×Tシャツ×ジーパンで歩ける。妹にはそのままで十分可愛いんだから気にするなと言っておいた。

  • 衣料品店の床が綺麗

床が綺麗というのは、別に丁寧に磨かれていてピカピカしているという意味ではない。服が床に散乱していない、という意味。トロントでは、店にもよるが若者に人気で価格もリーズナブルなForever21やH&M、ZARA、GAPなどの店に入るとほぼ100%床に商品が散らかっているのを目にする。これについてはわたしも謎でしょうがないので今度試しに人が服を手に取って床に落とすまでの過程を観察してみようと思うが、日本でこんな光景は新年の大売り出し限定セールなどでない限りまず見ない。妹もこれには感動し、自らの衣料品の扱い方を見直し改めていた。

  • さらさらパウダーシート

夏が短く湿気の少ないトロントでは、それの必要性を感じない。妹が日本に来たのは夏で、それも毎日35度前後プラス湿気という異常な気象に北国生まれの彼女はかなり参っていた。そこでビオレ・さらさらパウダーシートの出番。ある日外出先で買ってあげたら「My skin can breathe!!!!」と大喜び。汗のにおいが消え一瞬でフローラルになり、しかも全身さらさら。合気道教室に通い始めた後も愛用していた。

  • メイクアップ用品

人種の多いカナダでは、自分の肌に合うメイク道具を探すのは至難の業。妹いわく、MACやNYX、Maybelineなどのカナダでわりと人気のあるブランドの化粧品はアジア人の繊細な肌に合わないことが多いらしい。さらにナチュラルメイクが可愛いとされる今日の日本では、例えば口紅であっても薄めの色のあまりマットでない、潤い成分配合のものなどが多く、なんでもかんでも“TOO MUCH”な北米の化粧品とは違う。しかもクオリティが素晴らしい(妹談)。

  • 人々の反応

不運にも、日本でストーカーにあった妹。駅で泣きながら駅員に状況を説明している時の周りの人たちの反応に違和感を感じたという。トロントで同じ状況が起こった場合、人々はまず「何が起こったんだろう」「何か助けられる手段はないだろうか」という目線で彼女を見る。慰めや励ましの言葉をかけてやったり、対処方法を具体的に伝えてくれる人がいるかもしれない。けれど日本で彼女が人々から感じたのは「戸惑い」のみだったという。ただ見て、戸惑うだけ。奥ゆかしさを美とする文化故か、わたしたちは感情を欧米人ほど表に出さない。だから急に感情的な大人を見て困ってしまったのだろう。これもまた「表現する」ことにおける文化の違い。

  • がちゃぽん

「SMALL・CUTE・QUALITY」が溢れるジャパンだが、その一つがガチャガチャ(妹談)。バリエーションが豊富で可愛らしく、何より何が当たるかわからないわくわく感が1コインで味わえるということで、おなじくがちゃぽん好きな私の母と2人で少女時代にタイムスリップし、ガチャガチャと回してはその度にキャッキャと盛り上がっていた。

  • 巨峰

「日本のフルーツは美味しい!」と絶賛していた妹。特に巨峰が大好きになった。最初に食べ方が分からず誤って皮ごと食べていたのは、カナダのぶどうはマスカットのように皮ごと食べるタイプが大抵だから。ジューシーでやわらかくて甘くて、渋みがない。桃も大好き。






と、ざっとこんな感じ。
目の付けどころが私とはもちろん、兄妹間でもだいぶ違うので面白い。また思い出したら付け足すことにする。

バースディ

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先日、誕生日を迎えた。

 

夜はダウンタウンのどこかにレストランを予約していて、そこで夫婦2人で夕食を食べる、ということだけ夫から聞いていた。

 

昼頃に家を出、久しぶりに買い物でもしようとショッピングモールへ向かう。

Anthropologieという、わたしのお気に入りのお店でワンピースを買ってもらった。黒の、ぱきっとデザインの映える綺麗なワンピース。エプロン型で重ね着できるようになっているのだが、胸元はV型にぎざぎざのモンゴメリー・カラー(襟)に、下の方に黒のボタンが縦2列に可愛らしく並んでいる。カジュアルにもフォーマルにも着られるデザインと生地で、今冬の活躍を期待している。

 

 

服を買ってもらった後は、夫の買い物に付き合った。

購入した薄めのセーターに着替えるというので化粧室前の椅子に腰かけて待っていた。一枚で着るには生地が薄すぎるかもねと指摘すると、小さな子どものように拗ねてしまった。最初に来ていたシャツを着ればいいよと伝えたが、これまた子どもみたいに嫌だと言い張って聞かないので、時間に追われながらディナーに着ていく服を選ぶのに歩き回った。結局、「それとおんなじようなの、持ってないっけ?」というような無地のカーキのセーターを買った。なんだか今日は様子が変だ。あまりのお子様具合と融通の利かなさ故、わたしは少しいらいらしていた。

 

せかせかとショッピングモールを出て、予約しているというレストランへ向かう。

どこへ行くのかと聞いても答えないので、きっと少し暗めの、雰囲気の良いバーで西洋のお料理をシャンパンと一緒にいただくとかそういう感じだろうと、College通りを西に向かって歩きながら思う。夫の様子はまだ少しおかしい。携帯電話をやたら気にしたり、お店に丁寧な口調で「あと5分遅れます」などと電話を入れたりしている。5分遅れるくらいで電話を入れるような律儀な人ではない。どんな大そうなお店を予約したのだろう、わざわざ秘密にしなくたって、と思う。

 

ますます怪しさが増す中、夫が「ここだ、ここ」と言って立ち止まった場所があまりに予想外で拍子抜けした。とその数秒後に、「あ、ここは!」とすぐに認識した。トロントではわりと名の知れた沖縄料理屋である。数人の友人から「あそこは美味しいよ」と聞いたこともあり、気になっていた場所だ。予想は外れたものの、久しぶりの日本食!しかも沖縄料理!ということで気分は一気に高揚した。

伝統的な懐かしい、というよりは広々としたモダンな、しかし温かみのある空間だった。店員の誘導でテーブルへ向かう。木製の巨大なテーブルは中央にある流木のディスプレイを囲む形で、その上に等間隔にお皿やメニューが置かれている。そのうちの二つを店員は指差し、ここですと言う。他の客と相席らしい。がっかりした様子のわたしに夫は「This is Okinawa style!」などと呑気に笑っている。このオケージョンで沖縄スタイルとやらは無用だろう。そもそもこれは沖縄スタイルなのか。どちらでもいい。さっき感じた高揚感は少しずつ冷めつつあった。夫の思考回路が分からなかった。

 

とその瞬間、照明が落ち、「あの曲」がおもむろに店内に流れ出した。鈍感な私は「ハイハイ、沖縄スタイルね」と半分やけになりながらハンカチを取り出そうと鞄の中をごそごそしていた。急にワァッと歓声のようなものが聞こえた、と同時に、見覚えのある人たちが目の前にある小さな廊下から「ハッピーバースデー!!!!」と叫びながらぞろぞろと出てきた。先頭の友人は満面の笑顔で大きなケーキをわたしの前に運んできた。すべての謎が解けた。夫が計画していたのはこれだったのだ。十数人の友人たちがわたしを囲み、祝福の言葉を次々とわたしに浴びせた。本当に久しぶりに会う友人もいた。長らく顔を見ていなかったイタリア人の友人は「会えてうれしいよ」「おめでとう」とほっぺにキスをしてくれた。みんながにこにこしながらわたしを見ている。しかし一番幸せそうに笑ってわたしを見ているのは夫だった。わたしは、幸せ者である。心からそれを実感した。

 

夫がサプライズ好きなのは知っていた。昨年のクリスマスに、わたしの好きなブランドのブレスレットを3つプレゼントされた。ここだけの話、わたしはサプライズで物をもらうのをあまり好まない。もちろん「ありがとう」は伝えるし、気持ちは嬉しいので感謝する。それでもやはり自分なりのこだわりがあるので、恋人にプレゼントされるのなら一緒に行って自分で選んだものを買ってほしいのだ。なんだか可愛げない。分かっている。けれど自分の欲しいものを買ってもらえたらそれで100%ハッピーなのだから、高度な技術を要されるサプライズ大好き系女子よりもよっぽど扱いやすいのでは、とも思う。今回夫には「サプライズギフトは用意しなくてもいい」と事前に伝えていたのだが、違う形でサプライズが待っているとは予想していなかった。

 

こちらのレストランやバーでは、客一人のためにお店ぐるみでサプライズをするということは稀である。今回は友人の一人が店のオーナーと知り合いであったために、特別に許可してくれたらしい。友人一同は30分も前から店に来てスタンバイをしていたという。夫が携帯を気にしていたのも頷ける。バースデーケーキは、夫が来週からマネジメントすることになっている、まだオープンしていないベーカリーの新商品を彼がボスに頼み込んで作ってもらったようだった。夫の気持ちが素直に嬉しかった。服を異常に気にしたり、そわそわしていた時の彼を思い出し、笑いが込み上げてきた。その不器用さが途端に愛おしくなった。四角形のテーブルを囲み、友人たちと美味しい沖縄料理を肴に呑んで話した。2人だけの静かな夕食も素敵だけれど、こんなのも愉快で良い。温かい満たされた気持ちのまま、宴会は幕を閉じた。

 

友人たちからそれぞれプレゼントもいただいた。

酒屋のギフトカード、ファンタジックなブックマーカー、日記帳、撮影用のリフレクター、象のマグカップ、写ルンです、キャラメルとくるみ入りのチョコレートなど。

使えるものしか、ない。みんな分かってるなあ。ありがたや。

 

「〇歳の抱負は?」と友人の一人に聞かれた。のでちょっと考えてみる。

  • 家を出る。
  • 生活の質を上げる。
  • フィルムフォトグラフィーに挑む。
  • あらゆる芸術に触れる。
  • 「知ること」に更に貪欲になる。
  • 収入源を2~3つ持つ。

この6つかなあ。すべては夢に近づくため。いい年にしよう。

 

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クオリティー・オブ・ライフ

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今年の夏はCNEに4度も行った。 

CNE(Canadian National Exhibition)とはいわば期間限定の巨大特設遊園地のようなもので、アトラクションやゲームブースの他に各建物内でライブミュージックや手品、スケートショー等のイベントも楽しめる。ものすごい数の飲食店が軒を連ね、ドーナツバーガーやメープルベーコンパンケーキなどよく分からないものがけっこうな価格で売られているのだが、お祭りマジックにかかっているトロントの人達は次々に店をはしごしながら様々な種類の食べ物を試していた。なんだかみんな楽しそうなので、見ているこちらも「まあいいか、お祭りだし」となる。

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私はというとそれほど乗り物やゲームに興味がないため、大半の時間はInstax-mini8や自前の一眼レフでバシャバシャと写真を撮り歩いて満足していた。

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アメリカ映画に出てくるようなノスタルジックな風景がたまらない。カラフルなコットンキャンディ屋やキラキラネオンが施された乗り物や看板。アメリカンドッグをがしがしかじりながら歩くちゅる毛の男の子や、軽快にゲーム実況をするブース係員と戦いを見守る観衆。いやあ、ほんと、フォトジェニック。基本的にデジタルを使う私も、今回は「フィルム最高。フィルムカメラほしい。」とわりと本気で思い、まずは小学校の時使っていた昔懐かしいインスタントカメラを買うことから始めようと思う。

 

 

今日は久々に先生を訪ねた。

わたしがワーホリ時代にTAとして働いていた日本語学校の先生で、辞めてしばらく経った今も度々ご自宅にお邪魔してお茶を飲みながらお喋りしたりしている。

先生はいつもいろんな話をしてくれる。たいていの話はまったくわたしにとって未開拓の分野で毎度興味深く、「はー。へー。ほー。」と無知丸出しの相槌を度々挟みながら、しかし非常に楽しく拝聴する。今日は「今日の日本人ワーホリ女子の実態」を聞き仰天した。売春のために勉強という名目でカナダへ入国し、一カ月ほど学校で英語を学んだ後に会社に入り外国人相手(とくにアジア系)にそういうサービスをして収入を得、儲けたらさっさと帰国するという若い女の子が増えているらしい。他にもホメオパシー(同毒療法・同種療法)で体調がよくなった話や、報道関係の会社をつい最近退職し、ヨガのインストラクターになるために日々筋トレをする70歳のお隣さんの話などを聞いた。

わたしも先生も大好きなクリームアールグレイを2杯ほどいただき、せっかく天気がいいからとビーチ沿いのストリートを散策した。

先生は、素敵なお店や美味しいものをよく知っている。今日は彼女のお気に入りのアンティークショップ2軒と、通っているというお茶の専門店へ連れて行ってもらった。先生はアンティークショップにあったイタリア製のお盆を手に取ってしばらく眺めていたが、裏にMade in Italyと小さく書いてあるのが気に入らなかったようで戻していた。「Made in Italyって、いかにもお土産用に大量に作りましたって感じじゃない?」と言って笑っていた。二件目のアンティークショップで見つけた薔薇柄のティーポットとカップがそれはそれは可愛らしく、2人であれこれ言いながら眺めた。

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お茶屋さんに置いてあった先生おすすめのピーチジャムを買い、もう一度お家へ戻って京都一保堂のお抹茶と和三盆の砂糖菓子をいただき、今回はお開きとなった。「来週から忙しくなっちゃうけど、しばらくして落ち着いたらまたおいで。」と先生。とても充実した午後だった。

 

毎度先生を訪れるたびに考えるのは、「上質な生活」について。先生は自分の好きなものに囲まれて生活している。家の食器や家具などについて話す彼女を見ていればすぐにそれが分かるし、聴く音楽や鑑賞する美術作品なども「なんとなく」ではなく「多くの中から選んだ、洗練されたもの」だ。お気に入りのお店のタルトを食べるために店の近くに引っ越したとか、この小さな八百屋の椎茸がトロントで一番美味しいだとか、そうした小さなこだわりと、それを探し出す努力とその積み重ねを先生は考えずとも日々自然にしているのだと思う。日々の小さな選択は、自分にとって居心地のいい空間・環境を作り出す。そこに身を置くことで、間違いなく生活は豊かになる。先生に会うとそれを感じる。そして自分もそうなりたいと強く願う。

先生は、欲しいなあ~と思っていた希少なアンティークカップが数週間後に近所の店に破格で出現するというのを2度経験している。そして先生の周りはいつも華やかで多彩な人たちで溢れている。いわゆる「引き寄せ」ってやつだ。素敵な人には同調して素敵な人や出来事がやってくる。逆も然り。最近特に、これってほんとだなと思う。

 

そんなクオリティーライフとはいろんな意味でほど遠いわたしの新婚生活だが、あきらめるのは早い。日々の選択を少しずつ変えていくことは可能だし、あらゆるものにアンテナを張ることは今すぐにでも始められる。2人で引っ越したら可愛いティーカップを買うというささやかな目標もできた。

こういう人との出会いはほんとうに大切にしたい。先生との時間は上質な学びの時間である。正直に告白すると、先生といると自分があまりにも無知なことを毎度思い知るので、感情の中に少しだけ「不快」が混じる。でも憧れの人との時間に感じる不快は大きな成長につながることをわたしは知っている。もっともっといろんなことを知りたい。好きなものや人に囲まれて、心豊かに暮らしたい。そう思わせてくれる人に出会ったことに、心から感謝する。

 

 

阿蘇へ

義理の妹が来て最初の週末に、叔父叔母が経営するペンションを訪ねた。


早朝に出発し、のらりくらりと母の車で向かう。
巨大なカルデラとそれを囲む外輪山からなる広大な阿蘇の風景は、どこを切り取っても息を呑む絶景である。
途中草千里という大きな草原に立ち寄り、乗馬体験をした。ポコポコと一歩一歩丁寧に歩く馬の上で、阿蘇の山々を眺めた。
深く呼吸ができる。これがずっと恋しかった。
名産のとうもろこしをかじりながら阿蘇神社へ。

昨年、震災の約一月後に阿蘇神社を訪れた。入り口の大きな門は完全に崩壊し、周りの石段や柵などがものすごい角度に曲がっていたりした。
一年数カ月ぶりの神社には、参拝客の姿があった。外国人もちらほら見えた。
神社近くの小さな商店街を散歩している時、冷たいものが頭に当たるので振り返ると、竹細工の小さなお店を営む主人が竹製の水鉄砲でわたしたちを静かに攻撃しているのだった。妹は初めて見る代物に興味津々で、「やってみんかね」という彼の提案に応えていた。

わたしが店先に100円で売られていた草のバッタを見ていると、主人が「こっちこっち」と手招きをする。彼は店のわきに生えていた長い雑草をひとつ取ってきて、バッタのつくり方を教えてくれた。
夢中になってものをつくるのは久しぶりだった。2人で汗びっしょりになりながら一生懸命作った。心地よい時間だった。
紅茶味のご当地プリンをおやつに食べ、最終目的地へと急ぐ。


叔父夫婦が温かく迎えてくれた。
2人が北欧から取り寄せた木材で建設したペンションは20年ほど経った今もほとんどそのままで、来るたびに驚く。
叔父が日々注意深く丁寧に手入れをしているからであろう。昨年この地域を襲った巨大地震の面影も、特に感じなかった。



夕飯の時間も迫っていたので、着いてすぐに近くの温泉へ行った。
妹にとっては人生初温泉。
夫もそうだったが、とにかく他人と裸で風呂に入る、ましてや浸かりながら世間話なんて
「What's wrong with you people?」という感じらしい。
「タオルは持って入っちゃだめだよ」と言うと、「葉っぱならいい?ねえ、葉っぱで隠してもいい?」とうろたえながら訴えてくるので笑ってしまった。

緑に囲まれた露天風呂だった。少し熱めの湯が心地よい。妹は、あまりにも湯がなめらかなので手ですくっては首や腕にかけてはしゃいでいた。

風呂に浸かるという文化、もっと広めるべきじゃない??と真剣に思う。カナダの人たちなんて毎冬寒くて肩凝るんだからなおさら浸かった方がいいのでは…。
ここ黒川温泉地区までペンションから車でわずか数分なので、叔父は毎日のように温泉に入っている。うらやましいったらない。
妹もあがるころにはすっかり温泉を気に入り、2人で「気持ちよかったー」「オンセンサイコー」と何度もつぶやきながら旅館を出た。



さて、ディナーの時間である。
これが楽しみで来たと言っても過言ではない。
前菜からデザートまでかなりの量が出てくるのだが、とにかく一つ残らず美味しい。
叔父・叔母夫婦が選りすぐって取り寄せた食材と、庭で育てた野菜を使っている。

季節や収穫の具合によってその都度メニューは変わるのだが、唯一のスタメンとして毎回登場するのがこのリブ。これがまあ絶品。赤ワインと共にいただいた。

デザートの桃シャーベットと一緒に、叔父が焙煎したコーヒーを淹れてもらった。前回訪れた際に出してもらって、びっくりたまげた品である。私のような素人がコーヒーを語るのはおこがましいので避けるが、それでも、今まで飲んだ中で一番!と断言できるくらいには美味しかった。


しばらく食事の間に残って妹と話し、部屋に帰ってまた話した。
日本に来る前に例のセックス・トイをくれたボーイフレンドと別れたので、次はこんな人と付き合いたい!というのをリストアップしたらしい。
それを一つ一つたどりながらお互いの見解を言い合うという、なんとも女子っぽいことをした。
彼女の考え方と私の考え方は大概の分野においてかなり違う。彼女が堂々と見解を述べた後に私が真逆のことを言ったり突拍子もない質問をしたりすると、ぽかんとした顔で「ねえ、どういうこと?」と真剣に聞いてくる。
妹は我が強い方だが、誰よりも純粋で素直である。かわいいなあと思う。
わたしが見解を述べている間に、疲れて寝てしまった。


翌朝、同じ日に泊まっていた登山好きの夫婦と一緒に、叔父の案内で近所の「秘密の花園」へ出かけた。
「秘密の花園」では、この地域では見られない希少な植物を観察できる。
登山好きの夫婦は「これはもしや…!」「こんな花がここで見られるなんて!」と興奮気味にその希少な植物たちにカメラを向けていた。


叔父と叔母は、山の植物や鳥や昆虫について聞くと詳しく教えてくれる。
こんな風に、ただ自然の中でシンプルに暮らしている人たちがいることに今更ながら感銘を受ける。
彼らが暮らしの中で「大切にしているもの」は、明らかにトロントの人々のそれとは異なる。
ここにいると、わたしが日々悩まされているこまごました問題も、なんだかとてもちっぽけで、どうでもいいような気がしてくる。
散歩の後は妹と黒川温泉のあたりを歩いて散策し、阿蘇ジャージー牛乳を使ったアイスラテやかき氷を楽しんだ。



叔父夫婦に別れを告げ、勧められた河川プールに寄ってすこし泳いだ。冴えない天気と水温の低さ故全身水に浸かるのをしぶっているわたしをよそに、妹はさっさと飛び込んで楽しそうに泳いでいた。恐るべしカナディアン...となるも、結局彼女に引きずり込まれてしばらく一緒に泳ぐ羽目となった。
帰りに地元の定食屋でわたしはチャンポン、妹は親子丼を食べた。少し冷えた体にトンコツスープがしみる。後に叔母に「そこは唐揚げの超有名店よ。チャンポン、食べたの?」と言われたが、後悔はない。食べたらどっと疲れが出て眠くなった。


こんな感じで、熊本旅行は幕を閉じた。何度来ても必ず「あぁ。最高。帰りたくないなあ。」となる。
しかし、また来られてほんとうによかった。来年も必ず来よう。夫も連れて来よう。