寒国しろくまと夢のたび

カナディアン夫と暮らすトロント在住フォトグラファーの思考録

ギフトカードって、イイ

先月の誕生日に、数名からgift cardというものをもらった。

ちなみにギフトカードというのは、メッセージを書いて贈る紙製のカードのことではなく、特定の店舗で使えるカードに贈り主の意思で一定の金額を振り込んでプレゼントするというもので(ご存知だろうが一応説明)、個人的には日本ではあまりもらったりあげたりする機会のなかったものである。Starbucksと、LCBO(トロントの酒屋)のギフトカードをそれぞれ男性の友人からいただいた。














気づいてしまった。
ギフトカードって、悪くない。
全然悪くない。むしろ、とてもイイ。




どうしてだろう、ギフトカードってなんだか素っ気ないイメージがあったのだ。お祝いの場で「ギフトカード、はい」ってちょっと手抜きしてる感が出るような気がして、今まで自分ではやらなかった。もっとこう服とか小物とか、「あなたのことを想って選んだの」風が伝わるプレゼントの方が、グッとくるんじゃないかと思っていた。


しかし突然もらう側になった今回、これが、意外と嬉しい。
酒屋のギフトカードを貰って以来、土曜に街中の酒屋に立ち寄っては毎週違う種類のビールを数本買い、週末飲み比べ大会をしている。楽しいし美味しいので、写真を撮ったり(日本に比べ種類の多さはもちろんパッケージも洒落ている)、味のメモを取ってみたり、気づけばほとんどプチ趣味的なものになっている。


これは、自分で普通に買うのとはちょっと違う。
一定の金額内で一時的に楽しむという点で非日常感が増し、ワクワクする。小学生の時、遠足前日に100円玉数枚と共にお菓子売り場に放り出され、「さぁ、何でも好きなもの買いなさい」と言われたときのあの高揚と似ている。あれの大人版である。


さらに、物理的な"もの"でないところがよい。

ものというのは厄介で、どんどん増える。私はものが増えるのがあまり好きではない。というか、年を経るにつれ好きでなくなってきた。昔は不必要なものをやたらコレクトしては満足していたような時期もあった。けれど今はできるだけ身軽でいたい。物欲がない訳ではない。今でも服や食器や本は好きだ。ただ買い物は1人で行くことが多いし、買う時はものすごく選んで買うので、これをプレゼントを選ぶ側に立って考えてみると我ながらとてもめんどくさい(ごめんなさい)。

そして、店舗にもよるが最近は可愛いギフトカードも多い。今回頂いたスターバックスのものはデザインが秀逸で美しく、財布にあるだけで気分がいいのでとても気に入っている。



こうなると、ギフトカードを贈るということは味気なくも素っ気なくもなければ、手抜きでもない。特に今回は男性2人から頂いたという事を考えると、一周回って気が利くし洒落ているとさえ思えてくる。思うに男性が恋人以外の女性へ物を贈るというのはけっこう難しい。下手に慣れないブティックや雑貨屋を探し回るより、相手の好きなものをある程度考慮して素敵な柄のギフトカードと共に「これでなんでもあなたの好きなものを。」と小さなメッセージを添えて渡せば、相手は(少なくともわたしは)十分に嬉しい。もちろん、お酒の飲めない人に酒屋の、ゆるふわ森ガールにZARAのギフトカードなどはナンセンスなのでそこは渡す相手を考慮する必要があるが、それはさほど難しいことではないはずだ。



補足。中には人の欲しいものを言われずとも把握していて、ドツボのものをプレゼントしてくるセンスのいい人もいる。実際今回、撮影用の万能リフレクターをくれた友人がいた。まさにわたしの欲しかったものだった。こういうものは使う時のことを考えるとわくわくするし嬉しい。その時その時何が欲しいかというのは変わるので、本人とある程度密な関係でなければならず、その点では難易度は高い。
さらに補足。別のパターンで、全く予想だにしていなかったものをくれる人もいる。これも楽しい。自分では買わないものをもらうと、それを使うことによって未知の体験ができるのを想像し、これまたわくわくする。

結局、人様から何かをいただくという時点でありがたいし嬉しいのだけれど、何が言いたいのかというとわたしのギフトカードへの勝手なマイナスイメージが今回一気に払拭され、新たな発見と喜びを体験できて万歳!と、いうことなのだ。(長々とスミマセン)もうすっかり「いやあ、ギフトカード、イイね。」となっている。



ちなみに、日本の事情はよく分からないが、こちらカナダ・トロントではギフトカード文化なるものがわりと浸透しているように感じる。わたしは自分がもらったのは今回初めてだが、しょっちゅういろんな場面でプレゼントされているのを見かける。多くの店舗では季節や時期によってカードのデザインが変わるので、それを楽しめるのもよい。ギフト絡みでもう一つ、「プレゼント用です。ラッピングお願いします」と言ってその場で無料で包装してくれる店舗というのは、ほぼない。というかそういう習慣自体がない。買ったものをそのお店でもらえる紙袋等に入れてそのまま渡す、というのが普通だ。もしくは自分で包装紙を買って包む。なので日本の店舗でのそういうサービスは(環境に良いかという問題は置いて)純粋に嬉しい。




今、文字を打ちながらビールを飲んでいる。フルーティなビールをよく飲む。グレープフルーツ味が爽快で好きだが、今回はストロベリーにしてみた。
来週また、違う種類を試してみよう。遠足のおやつを選ぶこどもに戻った気分で、リカーショップへ向かう。

カナディアン兄妹がみつけたクール・ジャパン

妹が帰ってきて半月ほど経った。
日本に行く直前にボーイフレンドと別れたばかりだったが、もうさっさと新しいのを見つけている。





ところで、今回妹と一緒に日本の夏を過ごしてみて改めて感じたことがある。外国人から見た日本というのは面白い。
彼らのカメラにある写真を見ると、どうして撮ったのかわからない被写体の写真がよくある。
一緒に出歩くと、変なものに目を輝かせる。面白いので、その度になんで?と聞いてみる。

夫が去年来日した際に一番初めに撮ったものは、自動販売機だった。アメリカ人の友人、ブルース(仮名)は白い軽トラに積まれた藁の山を撮っていた。

ここらでカナダ人の夫とその妹が発見した「クールなジャパン」の中から、「へ~」となったものをリストアップしてみる。


(夫の場合)

  • 軽自動車

ラパンやタント、ムーブなどといった日本の軽自動車。「小さくて形も色も可愛い!おもちゃみたい!」らしい。
カナダの車は高級車以外は色もデザインもなんだか平凡。毎年雪が大量に降るのでほとんどの人は定期的に洗車したり磨いたりしない。

  • 喫煙ルーム

空港や駅などでよく目にする喫煙者専用の部屋。なぜみんな集まって吸うのか。外に出て吸えばよくない?気持ち悪くない?ということらしい。
ちょっと同感。あまりにも異様なので夫はそれを『Smoking room』ではなく『Cancer(癌) room』と呼んでいた。

  • コンビニのフェア

某コンビニエンスストアでおにぎりを二つ買ったら、レジでONE PIECEのクリアフィルをもらったらしく「???」となっていた。
おにぎりを200円分以上買うと一つ無料でギフトがもらえる、みたいなフェアが定期的にあるのだと説明すると「日本のコンビニ素晴らしすぎる!」とその後それだけのためにコンビニに通い詰めた(ワンピース観たことない)。

  • 缶コーヒー

わずか120〜130円で買える缶コーヒー。種類も豊富。美味い。トロントでコーヒーとなると、Starbucksなどのチェーンもしくはローカルなコーヒー店まで足を運び2〜5$払ってゲットするしかない。彼のお気に入りはBOSS微糖。

  • 焼肉屋のコンロ

チェーンの焼肉店へ行った時のこと。肉を焼き始めて煙が出てこないのに気づき、「煙は全部下に吸い込まれるようになってるんだよ。」と説明すると、「Wooooo that's so cool!!!」と食べる前からテンション⤴︎。国産ではなくオーストラリア産の肉だったが、味も最高!と大絶賛。ハイテクジャパンの印象が一層強まったそう。

  • ゴミ箱がない

日本は街中にゴミ箱がほとんど見当たらない。彼の育ったトロントの街には、数十メートルおきに公共のゴミ箱が設置されている。にもかかわらず日本の方が道にごみがなくクリーン。日本人の身体には『ごみは持ち帰るもの』という感覚が染みついている。

  • 家庭用トイレ

日本の家庭用のトイレの上部には、大抵小さなパイプが付いていて流した後にそこから水が出るようになっている。「まさか流した汚物がこのパイプから出ているのでは…」と思ったらしく心配そうに聞いてきた。

  • ゆるキャラ

各県にゆるキャラというものがいて、それが地域を盛り上げるために歌ったり踊ったりPR活動のためにイベントにおもむいたりしている。大人も子どももそれらを可愛がり応援する。夫「日本人ってやっぱり変だね」。

  • アニメの威力

コンビニにアニメ。パンやお菓子のパッケージにもアニメ。終いには警察庁から出ている万引き防止のポスターもアニメ。アニメ文化浸透度とその威力にWOW。

  • 飲み放題食べ放題三千円

飲み物も食べ物も好きなだけ食べられて30$(3000円)代という日本の居酒屋のコスパの良さ。外食代が高くつくカナダの人たちにとってはまさにヘブン。カナダには『All you can eat』いわゆる食べ放題の店はあるが、飲み放題というものはない。飲み物は種類にもよるがだいたい一杯約7~8$(700~800円)はする。しかもそれに消費税13%+チップ(最低でも合計金額の10%)が加わる。体格が良くよく食べる夫は特にこの制度にはものすごく感謝していた。

  • ヴァンダリズム

「日本にはヴァンダリズムがない」と夫。もちろんなくはないだろうが、他の多くの国々と比べて、美しいものや文化的なもの、公共のものを守ろうとする人々の意識は高い。そういう風に教育されているからだと思う。
(ヴァンダリズムとは-ヴァンダリズム - Wikipedia



(義理妹の場合)

  • アイスクリーム

コンビニやスーパー、薬局などで売られている100円前後のアイスクリーム。種類がとにかく多い上に安い、美味い、パッケージが可愛い。近所の大きなドラッグストアのアイスクリームコーナーへ連れて行った際、店奥からずらーっと並ぶ冷凍庫とその中にこまごまと陳列されたアイスクリームたちに一瞬で目を奪われ、5つも買って店内のベンチで試し食いしていた。トロントでアイスクリームを食べるには、アイスクリームの専門店で4~5$出すか、フードトラックで売っている甘々でチープな味のものを、それも2~3$出して買うしかない。

  • 100円均一店

ダイソーやSeriaなどのいわゆる『100均』に興奮し、初日から8千円も使ってしまった義理妹(愚か者)。ちょろっと覗くつもりが4時間半も買い物に付き合わされた。どうやったら100均でそんな膨大な時間と金を費やせるのか私たち日本人は理解に苦しむが、彼女のような外国人観光客の間では珍しくないらしい。彼女は主に文房具やキャラクターものの雑貨、旅行用のバキュームバック等の便利グッズを購入。

  • 女子が可愛い

来日の際、関空から伊丹へ移動したという彼女からメールがきた。恥ずかしさのあまりトイレに駆け込んだというので理由を聞いたところ、「空港にいる日本人の女の子たちが可愛すぎて眩しすぎて、髪ぼさぼさ&すっぴんで歩いている自分が恥ずかしくなり、いそいでメイクをしに走った」という。その後の日本滞在中にも2人で街中を歩いたりしていると何度も「日本人はすごくおしゃれで可愛い!!」と繰り返し言っていた。もちろんおしゃれを心から楽しんでいる可愛い日本人女子はたくさんいる。しかし日本社会の外見へのExpectation(期待度)が高い故に「めんどくさいけどマナーだから嫌々」やっている女子が多いのも事実。カナダでは『個人は個人』なのでわりとみんな他人の外見に無頓着だし、『すっぴんは恥ずかしい』という概念がないため、とくにパーティなんかの特別な場合でなければ平気で街をすっぴん×Tシャツ×ジーパンで歩ける。妹にはそのままで十分可愛いんだから気にするなと言っておいた。

  • 衣料品店の床が綺麗

床が綺麗というのは、別に丁寧に磨かれていてピカピカしているという意味ではない。服が床に散乱していない、という意味。トロントでは、店にもよるが若者に人気で価格もリーズナブルなForever21やH&M、ZARA、GAPなどの店に入るとほぼ100%床に商品が散らかっているのを目にする。これについてはわたしも謎でしょうがないので今度試しに人が服を手に取って床に落とすまでの過程を観察してみようと思うが、日本でこんな光景は新年の大売り出し限定セールなどでない限りまず見ない。妹もこれには感動し、自らの衣料品の扱い方を見直し改めていた。

  • さらさらパウダーシート

夏が短く湿気の少ないトロントでは、それの必要性を感じない。妹が日本に来たのは夏で、それも毎日35度前後プラス湿気という異常な気象に北国生まれの彼女はかなり参っていた。そこでビオレ・さらさらパウダーシートの出番。ある日外出先で買ってあげたら「My skin can breathe!!!!」と大喜び。汗のにおいが消え一瞬でフローラルになり、しかも全身さらさら。合気道教室に通い始めた後も愛用していた。

  • メイクアップ用品

人種の多いカナダでは、自分の肌に合うメイク道具を探すのは至難の業。妹いわく、MACやNYX、Maybelineなどのカナダでわりと人気のあるブランドの化粧品はアジア人の繊細な肌に合わないことが多いらしい。さらにナチュラルメイクが可愛いとされる今日の日本では、例えば口紅であっても薄めの色のあまりマットでない、潤い成分配合のものなどが多く、なんでもかんでも“TOO MUCH”な北米の化粧品とは違う。しかもクオリティが素晴らしい(妹談)。

  • 人々の反応

不運にも、日本でストーカーにあった妹。駅で泣きながら駅員に状況を説明している時の周りの人たちの反応に違和感を感じたという。トロントで同じ状況が起こった場合、人々はまず「何が起こったんだろう」「何か助けられる手段はないだろうか」という目線で彼女を見る。慰めや励ましの言葉をかけてやったり、対処方法を具体的に伝えてくれる人がいるかもしれない。けれど日本で彼女が人々から感じたのは「戸惑い」のみだったという。ただ見て、戸惑うだけ。奥ゆかしさを美とする文化故か、わたしたちは感情を欧米人ほど表に出さない。だから急に感情的な大人を見て困ってしまったのだろう。これもまた「表現する」ことにおける文化の違い。

  • がちゃぽん

「SMALL・CUTE・QUALITY」が溢れるジャパンだが、その一つがガチャガチャ(妹談)。バリエーションが豊富で可愛らしく、何より何が当たるかわからないわくわく感が1コインで味わえるということで、おなじくがちゃぽん好きな私の母と2人で少女時代にタイムスリップし、ガチャガチャと回してはその度にキャッキャと盛り上がっていた。

  • 巨峰

「日本のフルーツは美味しい!」と絶賛していた妹。特に巨峰が大好きになった。最初に食べ方が分からず誤って皮ごと食べていたのは、カナダのぶどうはマスカットのように皮ごと食べるタイプが大抵だから。ジューシーでやわらかくて甘くて、渋みがない。桃も大好き。






と、ざっとこんな感じ。
目の付けどころが私とはもちろん、兄妹間でもだいぶ違うので面白い。また思い出したら付け足すことにする。

バースディ

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先日、誕生日を迎えた。

 

夜はダウンタウンのどこかにレストランを予約していて、そこで夫婦2人で夕食を食べる、ということだけ夫から聞いていた。

 

昼頃に家を出、久しぶりに買い物でもしようとショッピングモールへ向かう。

Anthropologieという、わたしのお気に入りのお店でワンピースを買ってもらった。黒の、ぱきっとデザインの映える綺麗なワンピース。エプロン型で重ね着できるようになっているのだが、胸元はV型にぎざぎざのモンゴメリー・カラー(襟)に、下の方に黒のボタンが縦2列に可愛らしく並んでいる。カジュアルにもフォーマルにも着られるデザインと生地で、今冬の活躍を期待している。

 

 

服を買ってもらった後は、夫の買い物に付き合った。

購入した薄めのセーターに着替えるというので化粧室前の椅子に腰かけて待っていた。一枚で着るには生地が薄すぎるかもねと指摘すると、小さな子どものように拗ねてしまった。最初に来ていたシャツを着ればいいよと伝えたが、これまた子どもみたいに嫌だと言い張って聞かないので、時間に追われながらディナーに着ていく服を選ぶのに歩き回った。結局、「それとおんなじようなの、持ってないっけ?」というような無地のカーキのセーターを買った。なんだか今日は様子が変だ。あまりのお子様具合と融通の利かなさ故、わたしは少しいらいらしていた。

 

せかせかとショッピングモールを出て、予約しているというレストランへ向かう。

どこへ行くのかと聞いても答えないので、きっと少し暗めの、雰囲気の良いバーで西洋のお料理をシャンパンと一緒にいただくとかそういう感じだろうと、College通りを西に向かって歩きながら思う。夫の様子はまだ少しおかしい。携帯電話をやたら気にしたり、お店に丁寧な口調で「あと5分遅れます」などと電話を入れたりしている。5分遅れるくらいで電話を入れるような律儀な人ではない。どんな大そうなお店を予約したのだろう、わざわざ秘密にしなくたって、と思う。

 

ますます怪しさが増す中、夫が「ここだ、ここ」と言って立ち止まった場所があまりに予想外で拍子抜けした。とその数秒後に、「あ、ここは!」とすぐに認識した。トロントではわりと名の知れた沖縄料理屋である。数人の友人から「あそこは美味しいよ」と聞いたこともあり、気になっていた場所だ。予想は外れたものの、久しぶりの日本食!しかも沖縄料理!ということで気分は一気に高揚した。

伝統的な懐かしい、というよりは広々としたモダンな、しかし温かみのある空間だった。店員の誘導でテーブルへ向かう。木製の巨大なテーブルは中央にある流木のディスプレイを囲む形で、その上に等間隔にお皿やメニューが置かれている。そのうちの二つを店員は指差し、ここですと言う。他の客と相席らしい。がっかりした様子のわたしに夫は「This is Okinawa style!」などと呑気に笑っている。このオケージョンで沖縄スタイルとやらは無用だろう。そもそもこれは沖縄スタイルなのか。どちらでもいい。さっき感じた高揚感は少しずつ冷めつつあった。夫の思考回路が分からなかった。

 

とその瞬間、照明が落ち、「あの曲」がおもむろに店内に流れ出した。鈍感な私は「ハイハイ、沖縄スタイルね」と半分やけになりながらハンカチを取り出そうと鞄の中をごそごそしていた。急にワァッと歓声のようなものが聞こえた、と同時に、見覚えのある人たちが目の前にある小さな廊下から「ハッピーバースデー!!!!」と叫びながらぞろぞろと出てきた。先頭の友人は満面の笑顔で大きなケーキをわたしの前に運んできた。すべての謎が解けた。夫が計画していたのはこれだったのだ。十数人の友人たちがわたしを囲み、祝福の言葉を次々とわたしに浴びせた。本当に久しぶりに会う友人もいた。長らく顔を見ていなかったイタリア人の友人は「会えてうれしいよ」「おめでとう」とほっぺにキスをしてくれた。みんながにこにこしながらわたしを見ている。しかし一番幸せそうに笑ってわたしを見ているのは夫だった。わたしは、幸せ者である。心からそれを実感した。

 

夫がサプライズ好きなのは知っていた。昨年のクリスマスに、わたしの好きなブランドのブレスレットを3つプレゼントされた。ここだけの話、わたしはサプライズで物をもらうのをあまり好まない。もちろん「ありがとう」は伝えるし、気持ちは嬉しいので感謝する。それでもやはり自分なりのこだわりがあるので、恋人にプレゼントされるのなら一緒に行って自分で選んだものを買ってほしいのだ。なんだか可愛げない。分かっている。けれど自分の欲しいものを買ってもらえたらそれで100%ハッピーなのだから、高度な技術を要されるサプライズ大好き系女子よりもよっぽど扱いやすいのでは、とも思う。今回夫には「サプライズギフトは用意しなくてもいい」と事前に伝えていたのだが、違う形でサプライズが待っているとは予想していなかった。

 

こちらのレストランやバーでは、客一人のためにお店ぐるみでサプライズをするということは稀である。今回は友人の一人が店のオーナーと知り合いであったために、特別に許可してくれたらしい。友人一同は30分も前から店に来てスタンバイをしていたという。夫が携帯を気にしていたのも頷ける。バースデーケーキは、夫が来週からマネジメントすることになっている、まだオープンしていないベーカリーの新商品を彼がボスに頼み込んで作ってもらったようだった。夫の気持ちが素直に嬉しかった。服を異常に気にしたり、そわそわしていた時の彼を思い出し、笑いが込み上げてきた。その不器用さが途端に愛おしくなった。四角形のテーブルを囲み、友人たちと美味しい沖縄料理を肴に呑んで話した。2人だけの静かな夕食も素敵だけれど、こんなのも愉快で良い。温かい満たされた気持ちのまま、宴会は幕を閉じた。

 

友人たちからそれぞれプレゼントもいただいた。

酒屋のギフトカード、ファンタジックなブックマーカー、日記帳、撮影用のリフレクター、象のマグカップ、写ルンです、キャラメルとくるみ入りのチョコレートなど。

使えるものしか、ない。みんな分かってるなあ。ありがたや。

 

「〇歳の抱負は?」と友人の一人に聞かれた。のでちょっと考えてみる。

  • 家を出る。
  • 生活の質を上げる。
  • フィルムフォトグラフィーに挑む。
  • あらゆる芸術に触れる。
  • 「知ること」に更に貪欲になる。
  • 収入源を2~3つ持つ。

この6つかなあ。すべては夢に近づくため。いい年にしよう。

 

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クオリティー・オブ・ライフ

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今年の夏はCNEに4度も行った。 

CNE(Canadian National Exhibition)とはいわば期間限定の巨大特設遊園地のようなもので、アトラクションやゲームブースの他に各建物内でライブミュージックや手品、スケートショー等のイベントも楽しめる。ものすごい数の飲食店が軒を連ね、ドーナツバーガーやメープルベーコンパンケーキなどよく分からないものがけっこうな価格で売られているのだが、お祭りマジックにかかっているトロントの人達は次々に店をはしごしながら様々な種類の食べ物を試していた。なんだかみんな楽しそうなので、見ているこちらも「まあいいか、お祭りだし」となる。

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私はというとそれほど乗り物やゲームに興味がないため、大半の時間はInstax-mini8や自前の一眼レフでバシャバシャと写真を撮り歩いて満足していた。

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アメリカ映画に出てくるようなノスタルジックな風景がたまらない。カラフルなコットンキャンディ屋やキラキラネオンが施された乗り物や看板。アメリカンドッグをがしがしかじりながら歩くちゅる毛の男の子や、軽快にゲーム実況をするブース係員と戦いを見守る観衆。いやあ、ほんと、フォトジェニック。基本的にデジタルを使う私も、今回は「フィルム最高。フィルムカメラほしい。」とわりと本気で思い、まずは小学校の時使っていた昔懐かしいインスタントカメラを買うことから始めようと思う。

 

 

今日は久々に先生を訪ねた。

わたしがワーホリ時代にTAとして働いていた日本語学校の先生で、辞めてしばらく経った今も度々ご自宅にお邪魔してお茶を飲みながらお喋りしたりしている。

先生はいつもいろんな話をしてくれる。たいていの話はまったくわたしにとって未開拓の分野で毎度興味深く、「はー。へー。ほー。」と無知丸出しの相槌を度々挟みながら、しかし非常に楽しく拝聴する。今日は「今日の日本人ワーホリ女子の実態」を聞き仰天した。売春のために勉強という名目でカナダへ入国し、一カ月ほど学校で英語を学んだ後に会社に入り外国人相手(とくにアジア系)にそういうサービスをして収入を得、儲けたらさっさと帰国するという若い女の子が増えているらしい。他にもホメオパシー(同毒療法・同種療法)で体調がよくなった話や、報道関係の会社をつい最近退職し、ヨガのインストラクターになるために日々筋トレをする70歳のお隣さんの話などを聞いた。

わたしも先生も大好きなクリームアールグレイを2杯ほどいただき、せっかく天気がいいからとビーチ沿いのストリートを散策した。

先生は、素敵なお店や美味しいものをよく知っている。今日は彼女のお気に入りのアンティークショップ2軒と、通っているというお茶の専門店へ連れて行ってもらった。先生はアンティークショップにあったイタリア製のお盆を手に取ってしばらく眺めていたが、裏にMade in Italyと小さく書いてあるのが気に入らなかったようで戻していた。「Made in Italyって、いかにもお土産用に大量に作りましたって感じじゃない?」と言って笑っていた。二件目のアンティークショップで見つけた薔薇柄のティーポットとカップがそれはそれは可愛らしく、2人であれこれ言いながら眺めた。

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お茶屋さんに置いてあった先生おすすめのピーチジャムを買い、もう一度お家へ戻って京都一保堂のお抹茶と和三盆の砂糖菓子をいただき、今回はお開きとなった。「来週から忙しくなっちゃうけど、しばらくして落ち着いたらまたおいで。」と先生。とても充実した午後だった。

 

毎度先生を訪れるたびに考えるのは、「上質な生活」について。先生は自分の好きなものに囲まれて生活している。家の食器や家具などについて話す彼女を見ていればすぐにそれが分かるし、聴く音楽や鑑賞する美術作品なども「なんとなく」ではなく「多くの中から選んだ、洗練されたもの」だ。お気に入りのお店のタルトを食べるために店の近くに引っ越したとか、この小さな八百屋の椎茸がトロントで一番美味しいだとか、そうした小さなこだわりと、それを探し出す努力とその積み重ねを先生は考えずとも日々自然にしているのだと思う。日々の小さな選択は、自分にとって居心地のいい空間・環境を作り出す。そこに身を置くことで、間違いなく生活は豊かになる。先生に会うとそれを感じる。そして自分もそうなりたいと強く願う。

先生は、欲しいなあ~と思っていた希少なアンティークカップが数週間後に近所の店に破格で出現するというのを2度経験している。そして先生の周りはいつも華やかで多彩な人たちで溢れている。いわゆる「引き寄せ」ってやつだ。素敵な人には同調して素敵な人や出来事がやってくる。逆も然り。最近特に、これってほんとだなと思う。

 

そんなクオリティーライフとはいろんな意味でほど遠いわたしの新婚生活だが、あきらめるのは早い。日々の選択を少しずつ変えていくことは可能だし、あらゆるものにアンテナを張ることは今すぐにでも始められる。2人で引っ越したら可愛いティーカップを買うというささやかな目標もできた。

こういう人との出会いはほんとうに大切にしたい。先生との時間は上質な学びの時間である。正直に告白すると、先生といると自分があまりにも無知なことを毎度思い知るので、感情の中に少しだけ「不快」が混じる。でも憧れの人との時間に感じる不快は大きな成長につながることをわたしは知っている。もっともっといろんなことを知りたい。好きなものや人に囲まれて、心豊かに暮らしたい。そう思わせてくれる人に出会ったことに、心から感謝する。

 

 

阿蘇へ

義理の妹が来て最初の週末に、叔父叔母が経営するペンションを訪ねた。


早朝に出発し、のらりくらりと母の車で向かう。
巨大なカルデラとそれを囲む外輪山からなる広大な阿蘇の風景は、どこを切り取っても息を呑む絶景である。
途中草千里という大きな草原に立ち寄り、乗馬体験をした。ポコポコと一歩一歩丁寧に歩く馬の上で、阿蘇の山々を眺めた。
深く呼吸ができる。これがずっと恋しかった。
名産のとうもろこしをかじりながら阿蘇神社へ。

昨年、震災の約一月後に阿蘇神社を訪れた。入り口の大きな門は完全に崩壊し、周りの石段や柵などがものすごい角度に曲がっていたりした。
一年数カ月ぶりの神社には、参拝客の姿があった。外国人もちらほら見えた。
神社近くの小さな商店街を散歩している時、冷たいものが頭に当たるので振り返ると、竹細工の小さなお店を営む主人が竹製の水鉄砲でわたしたちを静かに攻撃しているのだった。妹は初めて見る代物に興味津々で、「やってみんかね」という彼の提案に応えていた。

わたしが店先に100円で売られていた草のバッタを見ていると、主人が「こっちこっち」と手招きをする。彼は店のわきに生えていた長い雑草をひとつ取ってきて、バッタのつくり方を教えてくれた。
夢中になってものをつくるのは久しぶりだった。2人で汗びっしょりになりながら一生懸命作った。心地よい時間だった。
紅茶味のご当地プリンをおやつに食べ、最終目的地へと急ぐ。


叔父夫婦が温かく迎えてくれた。
2人が北欧から取り寄せた木材で建設したペンションは20年ほど経った今もほとんどそのままで、来るたびに驚く。
叔父が日々注意深く丁寧に手入れをしているからであろう。昨年この地域を襲った巨大地震の面影も、特に感じなかった。



夕飯の時間も迫っていたので、着いてすぐに近くの温泉へ行った。
妹にとっては人生初温泉。
夫もそうだったが、とにかく他人と裸で風呂に入る、ましてや浸かりながら世間話なんて
「What's wrong with you people?」という感じらしい。
「タオルは持って入っちゃだめだよ」と言うと、「葉っぱならいい?ねえ、葉っぱで隠してもいい?」とうろたえながら訴えてくるので笑ってしまった。

緑に囲まれた露天風呂だった。少し熱めの湯が心地よい。妹は、あまりにも湯がなめらかなので手ですくっては首や腕にかけてはしゃいでいた。

風呂に浸かるという文化、もっと広めるべきじゃない??と真剣に思う。カナダの人たちなんて毎冬寒くて肩凝るんだからなおさら浸かった方がいいのでは…。
ここ黒川温泉地区までペンションから車でわずか数分なので、叔父は毎日のように温泉に入っている。うらやましいったらない。
妹もあがるころにはすっかり温泉を気に入り、2人で「気持ちよかったー」「オンセンサイコー」と何度もつぶやきながら旅館を出た。



さて、ディナーの時間である。
これが楽しみで来たと言っても過言ではない。
前菜からデザートまでかなりの量が出てくるのだが、とにかく一つ残らず美味しい。
叔父・叔母夫婦が選りすぐって取り寄せた食材と、庭で育てた野菜を使っている。

季節や収穫の具合によってその都度メニューは変わるのだが、唯一のスタメンとして毎回登場するのがこのリブ。これがまあ絶品。赤ワインと共にいただいた。

デザートの桃シャーベットと一緒に、叔父が焙煎したコーヒーを淹れてもらった。前回訪れた際に出してもらって、びっくりたまげた品である。私のような素人がコーヒーを語るのはおこがましいので避けるが、それでも、今まで飲んだ中で一番!と断言できるくらいには美味しかった。


しばらく食事の間に残って妹と話し、部屋に帰ってまた話した。
日本に来る前に例のセックス・トイをくれたボーイフレンドと別れたので、次はこんな人と付き合いたい!というのをリストアップしたらしい。
それを一つ一つたどりながらお互いの見解を言い合うという、なんとも女子っぽいことをした。
彼女の考え方と私の考え方は大概の分野においてかなり違う。彼女が堂々と見解を述べた後に私が真逆のことを言ったり突拍子もない質問をしたりすると、ぽかんとした顔で「ねえ、どういうこと?」と真剣に聞いてくる。
妹は我が強い方だが、誰よりも純粋で素直である。かわいいなあと思う。
わたしが見解を述べている間に、疲れて寝てしまった。


翌朝、同じ日に泊まっていた登山好きの夫婦と一緒に、叔父の案内で近所の「秘密の花園」へ出かけた。
「秘密の花園」では、この地域では見られない希少な植物を観察できる。
登山好きの夫婦は「これはもしや…!」「こんな花がここで見られるなんて!」と興奮気味にその希少な植物たちにカメラを向けていた。


叔父と叔母は、山の植物や鳥や昆虫について聞くと詳しく教えてくれる。
こんな風に、ただ自然の中でシンプルに暮らしている人たちがいることに今更ながら感銘を受ける。
彼らが暮らしの中で「大切にしているもの」は、明らかにトロントの人々のそれとは異なる。
ここにいると、わたしが日々悩まされているこまごました問題も、なんだかとてもちっぽけで、どうでもいいような気がしてくる。
散歩の後は妹と黒川温泉のあたりを歩いて散策し、阿蘇ジャージー牛乳を使ったアイスラテやかき氷を楽しんだ。



叔父夫婦に別れを告げ、勧められた河川プールに寄ってすこし泳いだ。冴えない天気と水温の低さ故全身水に浸かるのをしぶっているわたしをよそに、妹はさっさと飛び込んで楽しそうに泳いでいた。恐るべしカナディアン...となるも、結局彼女に引きずり込まれてしばらく一緒に泳ぐ羽目となった。
帰りに地元の定食屋でわたしはチャンポン、妹は親子丼を食べた。少し冷えた体にトンコツスープがしみる。後に叔母に「そこは唐揚げの超有名店よ。チャンポン、食べたの?」と言われたが、後悔はない。食べたらどっと疲れが出て眠くなった。


こんな感じで、熊本旅行は幕を閉じた。何度来ても必ず「あぁ。最高。帰りたくないなあ。」となる。
しかし、また来られてほんとうによかった。来年も必ず来よう。夫も連れて来よう。

プチ夏休み

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日本にいる。

 

気が付けばもう2週間近く経っている。

その間歯医者に通ったり、長い付き合いのある友人と神社を参ったり、高校時代の友人の家庭を訪問し赤ちゃんと遊んだりしていた。とりわけ何かしているというわけでもないが、充実している。

 

今回の帰省の意味合いとして、とにかくあの家から離れる、というのがある。

トロントでは夫の家族と住んでいた(帰ったらまたしばらく住む)のだが、義理の母のクレイジー具合がちょっと、いやかなり病的で、わたしは新婚早々人生最大のストレスを抱えていた。同じタイミングで夫の祖母に続き父が癌で亡くなった。大変な時に嫁に来てしまい、「結婚って…」と途方に暮れそうになったりもしたが、「いやいやまだまだこれから!わたしが暗くてどうする!」と自身を奮い立たせ、夫のサポートに徹した。しかしながら一番のストレスの原因である義理母の言動が良い方向に向かうわけもなく、「これは休息が必要」となり日本に帰ってきたわけだ。

 

帰ってきてからは母と暮らしているが、彼女とは波長が合い一緒にいて居心地がいい。常に適度な距離が保たれていてお互いほとんど干渉しない。小さい頃からわたしを一人の人間として見てくれていたので、変に親ぶって上下関係をつけたりもしなかった。それだから今でも一対一できちんと対話できるのだろう。

何より彼女は「課題の分離」ということについてよく分かっていて(父もそうだったが)、わたしがやるべきこと・やろうとしていることに対していつも「見守る」姿勢を一貫していた。「見守る」というのは、「ほったらかしておくけど、どうしても助けが必要な時は頼ってね」というスタンスである。

「課題の分離」という言葉は、わたしが今年に入ってから読んだ岸見一郎氏の「嫌われる勇気」という本に出てくるもので、これが非常に興味深い。

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哲人(哲学者)と青年の対話形式でアルフレッド・アドラーの説く心理学の真理に迫るというもので、その考察が独特で読み入ってしまった。

「課題の分離」というのは、「自分の課題(やるべきこと)」と「他人の課題」を完全に分けること。一人で靴紐を結べない子どもに「ハイハイ、ママがしてあげるからね」と言って結んであげる行為は「他人の課題への介入」であり分離できていない状態である。昔、彼氏が買ってあげた服を着てくれない!と文句を言っている友人がいたが、その服を着るか着ないかは彼の問題であって、彼女が気にすることではないのである。これが「課題の分離」。まあとにかく面白いので読んでほしい。

 

母にこの話をすると、「ああ、それはわたしもお父さんもよく気をつけて子育てをしてたよ」と言っていた。うちは親が両方とも教育に携わる仕事をしているのでたまたまこういう知識があったのかもしれないが、思えば幼い頃から「なんかうちはほかのおうちと違う」という感覚がぼんやりとあった。

夫家に入ってから感じていた言いようのない違和感とストレスが、言葉で定義されることによって一気に「ガッテン!」となり、いくらか気持ちが楽になったように思う。

今は、変に思い悩まず「さっさとお金を貯めて夫と家を出る」という小さな、しかし非常に重大な目標にむけて無心でコツコツがんばるつもりだ。

 

今夜、義理の妹が日本へ着く。彼女にとってこの旅行の意味合いは、きっと「離れる」こと、そして「見ること」であろう。妹は22歳の今まで家を出たことがなく、料理をする、友達の家に泊まるなどのごく平凡な経験さえも親の方針により制限されてきた。夫に言わせれば「井の中のバケツの中の蛙」である。女の子ということもあり、制限は夫の何十倍も厳しかった様(本人談)。

しかし彼女は最近、殻を自ら破りはじめた。先々月は母親と大喧嘩をして家出をした。わたしは彼女の家出を「よし、いいぞいいぞ」などと呑気に楽しんでいたが、家はけっこうな大騒ぎだった。家庭で起き続けてきた「当たり前」に疑問を持ち始め、少しずつ視野が開け始めたのだ。パーフェクトなタイミングでの日本旅行というわけだ。いろんなものを見て体験し、成長してほしい。

 

明日からはおそらく、あっという間に時間がすぎるだろう。

一日一日を、しっかり噛みしめる。

今朝

ココが死んだ。

朝からビーチで撮影だったのでバタバタと支度をし、もう出ようかという時に夫が告げた。7時を過ぎてもぴちぴち言わないので彼が不思議に思って寝床を見た時には、もう固くなっていた。あまりにも突然で、動揺した。彼女を外の木のそばに埋め撮影へと向かう。行きのバスの中、息苦しかった。心がざわざわして落ち着かない。原因を考えつくだけ考えた。食べものの栄養のバランスが悪かったのかとか、部屋の中の臭いだとか、ストレスだとか、立て掛けていた仕切の下敷きになったのだろうかとか。

けれども結局いくら考えたところで彼女は帰ってこない。

 

ココは雀の雌で、ある日夫が巣から落ちているのを見つけて連れて帰ってきた。まだ雛だった彼女に名前をつけ、大切に育てていた。

つもりだった。

 

数ヶ月前に夫の父が亡くなって以来染み付いていた重苦しい家の空気を、ココは少しだけ明るくした。 もう少ししたら外に出し、虫を食べる練習をして、時期が来れば自然に放すはずだった。

 

どんな風に死んだんだろうか、と考えると可哀想でならなかった。

無責任に命を預り、勝手に可愛がって満足していたじぶんを恨んだ。

 

帰ると、彼女が寝床代わりに使っていたカーテンや日よけなどがすっかりきれいに片付けられ、夫は朝と同じ格好でベッドに寝転がっていた。

あの重苦しい「死」の空気はまたもとのとおり、さらにわたしの部屋の中にまで充満していた。