寒国しろくまと夢のたび

カナディアン夫と暮らすトロント在住フォトグラファーの思考録

大晦日inトロント。2017年を振り返ってみる。

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年の瀬ですね。

 

2017年ももうすぐ終わる(カナダ時間)。

何だか本当にいろいろあった年で、今頭の中をいろんなものが駆け巡ってる。

しいて一言で言うならば2017年は「自分ととことん向き合った年」。今まで生きてきておそらく一番悩んだ。3年前に初めてカナダへ来てから、人との出会いや経験によって毎年自分の考え方や価値観はアップデートされているのだけど、今年はちょっとこれまでとは違う成長の仕方をしたな、と思う。

 

 

バランスを意識した年

カナダへ留学してきてから今年の初めまでの2年間は、アウトプット(自分の内側を表現、発信するための能動的な行動)をひたすらやってきた。学校でも職場でもプライベートでもとにかく英語を喋りまくり、休みの日も人に会う機会があればどんどん出向いた。現在の夫と付き合いだしてからは彼の言うフレーズを真似して使ってみたり、発音やリズムを練習してカナディアンたちの集まりで通じるか試してみたりしていた。ほんとうにこの2年間はいろんな人に会ってたくさんコミュニケーションを取っていた。「自分を表現すること」の楽しさを知れた大切な時間だったな、と今は思う。 

 

今年は、特に後半かな、インプット(アウトプットの基になる知識や技術、教養などを蓄えること)をかなり楽しんだ。目まぐるしいアウトプット期間を経てほぼ忘れかけていたけど、何の分野においても成長にインプットは不可欠。バランスが大事。家やカフェで勉強したり本を読んだり、人の書いたものをインターネット上で読んで違う価値観に触れたりする時間がけっこうあった。この1年でバランスのとり方がちょっとずつ分かってきた。よかったなと思う。

 

2017年に行ったアウトプット作業

  • 写真用のホームページ、Instagramを開設
  • このブログを始める
  • 春~夏にポートレートセッションを実施
  • 本やインターネットで学んだことを文章や図にまとめる
  • 日本語学校でのボランティア
  • 留学エージェントのアシスタント

2017年に行ったインプット作業

  • 本を読みまくる(未知の分野の本を納得するまで何度も読み返して落とし込む作業をけっこうした。そう言えば小説一冊も読んでない。)
  • 写真・カメラの基礎知識、撮影技術、編集方法の勉強
  • 写真に関する記事を英語で読む
  • 人の書いたブログや記事を定期的に読む
  • インテリアデザインの勉強
  • 国内外の写真家、アーティストの作品に触れる

 

何をそんなにインプットしていたのかと言うと、一つは写真関係。これは実践と同時進行で勉強し、身に付けたことがたくさんある。春夏のポートレートセッション中にうまくいかなかったことや実践で疑問に思ったことなどを書き出して「プロはどうやっているのか」を調べたり、編集・修正のスキルを本やインターネットで調べながら学んだりした。あとは既存のアーティストたちの作品を見たり、自分の嗜好を知るために好きな写真や絵、デザインなどをスケッチブックに貼り付けたりもした。

もう一つはざっくり言うと「生き方」の模索。「自分はどうやって生きたいのか」を真剣に考えた年だったから、わたしが思う魅力的な人たちの「生き方」を吸収できる本や記事、ブログ等をたくさん読んだ。読む→咀嚼する→自分に置き換えて考える→実際に行動してみるというのをひたすら繰り返した。この模索期間に得たものはほんとうに大きかった。とても充実していた。

 

今はインプット期間を経てまた「行動したい欲」の波が来ている。学んだことを試したい。なんだか自分で自分を実験してるような感じ。ちょっと変態っぽいな。。 行動する時って勇気がいるけど、でもやっぱり今よりよくなりたいから。来年はもっと自分にむちゃぶりしまくろうと思う。この2つのバランスの取り方についても、付き合っていきながら自分に合うやり方を見つけたい。

 

 

 

小さな挑戦の年

今年はいろんなことに挑戦した年だった。

変わったというか、その傾向が一層強まったなというのが、何かを始めるときに「やったら楽しそう」「なんだか分からないけど興味がわく」という自分の直感や気持ちに沿ってやるかどうか決めるということ。これまでの自分の傾向とか、経験上実現出来そうだな~ということを無意識に選んで行動していた頃が昔はあった。高校の時とか。今のところ国語しか得意なものないし国語の先生になるしかないか、みたいな思考だった。「やってみるまで楽しいか、うまく出来るかどうかなんて分からない」んだし、とりやえず何でもやってみよ、ぐらいの気持ちでいろいろやる方が楽しいなと思う。

 

2017年にした小さな挑戦

  • ポートレートセッション with トロントの大学生(4月~7月)
  • ポートレート作品作り(2日間)
  • 式典での集合写真撮影
  • エンゲイジメント・フォト撮影
  • デザイナー作品の物撮り
  • 現像、Photoshop
  • 日本語の宿題の添削
  • Website作成
  • フィルムカメラ
  • 世界のサラダ作り
  • インテリアデザインの勉強
  • ジムに通う、スクワットチャレンジ
  • 洋画やドラマをを英語字幕でたくさん観る
  • マインドフルネス、ヨガ
  • 結婚式の余興(初)

 

こんな感じかな。好きなことやできることが毎年増えていくのはやっぱり嬉しいな。もうすでに2018年にやりたい!と思っていることが山ほどあるので、それはまた追って書くとする。

 

 

 

「家族」について考えた年

これはかなり大きなテーマだった気がする。結婚後、2016年秋に再びカナダに戻ってきてから夫の家族と一緒に住んでいる。わたしが戻った時点ですでに義理父の癌はかなり進行しており、無念にも今年の春に亡くなった。それまでは毎日病院と寺を行き来し、彼のために尽力する家族に寄り添った。 

 

今年は「家族の在り方」はこんなにも違うのかと気づき、悩み、考えた年だった。夫の両親は国籍や文化はもちろん、考え方や価値を置くものがわたしの家族とは全く違う。「自分の幸福を犠牲にしてでも家族を守る」とか、「恨みつらみはあれど血がつながっている以上関係を継続するし助け合う努力をする」とか。わたしにとっては決してそうではないものが、彼らにとっては真実であり正義であったりする。頻繁に怒鳴りあったり傷つけあったりしているのに、次の日には「家族が一番」「家族を愛している」と言ったりしている彼らにどうしても賛同できず、困惑し、一人苦しむこともあった。

だいぶ前に、夫と私の父がお酒を酌み交わしながら「家族」についてちょっとした討論になったことがあった。「自分がいよいよ死ぬ、となった時に子どもに何をしてほしいか」ということについて、わたしの父は「自分の子には、世界のどこかで幸せにがんばっていてほしい。わざわざそれを投げ出してまで来てもらわなくても構わない」と言った。夫は「それは違う。家族が大変な時にはみんな一緒にいるべきだ」と言う。結局最後までかみ合わなかったので私がとりあえずその場は終了させた。

 

わたしが父のこの意見を聞いたのは初めてだったけれど、わたしもどちらかと言えば父に同感だった。家族と言えど個人は尊重されるべきだし、そこで会いに行くか行かないかは子どもの自由であり義務ではないと思う。けれどこうして今年夫の家族と向き合いながら感じたことは、「家族の在り方」に正解も不正解もないということ。彼らの信念は、彼らが一生懸命生きてきた過程で創造してきたものだ。「違うことは当たり前」なのだ。彼の家族を見つめることによって、わたし自身の家族の在り方やそれが今のわたしの価値観にどういう影響を与えているのかということを客観的に見ることができた。そして将来わたしが自分の家族を持つことになった時、どんな風に家庭を築いていきたいか考えるきっかけとなった。

 

違う価値観を受け入れるというのは相当難しい。今年はそれで何度も苦しい思いをしたけれど、それでも少しずつ前には進んでいる。おそらくこれは一生向き合っていくテーマだからこれからもきっとたくさん悩むんだろうけれど、周りを見渡して視野を広げながら少しずつ自分の信念を築いていけたらいいな、と思う。

 

 

 

質問まみれの年

今年は自分自身にいろんな問いを投げかけ続けた。冒頭にも書いたようにとことん自分と向き合った年だったと思う。自分自身を知ることの重大さを知った。先人の生き方を観察し、自分を分析し、とにかく質問攻めにした。また変態になっている。いやでもほんとうに、ほんとうに大事なこと。

「わたしはほんとうは何をしたいのか?」「なぜ今もやもやしているのか」

「これができない原因は何?」「わたしが大切にしたいものは何?」

「わたしは何をしたらときめき、感動するのか?」

「どうしたらもっと楽しくなるか?」

・・・

自分への質問も然り、人と話すときも、意識していろいろ質問した気がする。自分が知らないことや吸収したいと思うことをたくさん知っている相手には怖がらずにどんどん聞く努力をした。その答えを持ち帰ってもう一度深く考えてみたり、自分自身と照らし合わせたりした。

 

わたしはよく人から相談を受けるのだけど、自分で何を喋っているのか分からなくなる人とか、問題のまわりをぐるぐる回っていてなかなか抜け出せない人などの場合は「この人は本当は何に悩んでいるのかな?最終的にはどうしたいのかな?」「どんな質問をすれば問題に自分で気づけるかな?」ということを考えながら、気をつけて喋った。心理学者かカウンセラーになったような気持ちで。今年はさらに上空から客観的にものごとを観察する能力がついた気がする。

主観を取り除いて人を客観的に見ることができると、自分のことも遠くから眺められるようになる。まあ自分のことを客観的に見るのは何倍も難しいんだけれど。そうやって気づいたことをノートに書き起こしたのもよかったな。

 

質問し続けてよかったことは

  • 普段無意識に考えていることに気づいてネガティブな思い込みを払拭できたこと
  • 感情に素直に従って行動できるようになったこと
  • 自分が幸せかどうかという基準で言動を決められるようになったこと
  • 「これからどうしたいか」を明確にできたこと
  • 難しいことでも楽しくやる方法を工夫できるようになったこと
  • 言葉にできないモヤモヤやいらいらの原因を突き止めて対処できるようになったこと

 

 

 こんな感じでしょうか。

・・・なんかこう、今文字に起こしてみて、ほんとうにこの悩みまくった1年は意味があったんだなと思う。よかった。これからも一生懸命生きようと思う。

 

 

 

 

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 このブログを読んでくれている心優しい友人たちへ。いつもありがとうございます。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

もう日本の正月をスキップし出して今年で4度目、初詣とかおせちとかの写真を「いいな~」と思いながら毎年見ています。トロント、大晦日の今日は-22℃まで冷え込む模様。

 

これからもちょいちょい気まぐれに更新する予定ですが、ブログの内容に関して「わたしはこう思ったよ~」とかあればぜひ教えてください。そうでなくても、近況の報告とかね。どうしてもカナダにいると日本と疎遠になるけど、けっこう、みんな元気なのかな、とか気になっているのですよ。気軽に連絡してくれたら嬉しいです。

2018年もみんなにとってかけがえのない幸せな1年となりますように。

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ということで皆様、よいお年を。また来年。

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食べること。今よりちょっと幸せになれる生き方。

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先日行ったBata Shoe Museumにて。 

 

 

昨夜は夫の誕生日パーティで盛り上がった。

「パーティで出す料理はすべて手作りしてほしい」「オムライスが食べたい」という彼の要望にこたえ、久しぶりに張り切っていろいろ作った。とりわけ先月あたりから日本食を恋しがっていた夫のために、すべて日本の家庭料理にしてみた。

オムライス、ポテトサラダ、筍としそのつくね串、唐揚げ、いなり寿司。

オムライスは彼の大好物で、こちらで暮らし始めてから何度も作っている。「卵でとじるのをひとつひとつしないといけないから、オムライスはパーティ料理には向かないよ。一気に出せないじゃん。」と事前に言ってみたけれどどうしても!と言うので、結局パーティに来てくれた人たち一人ひとりに時間差で出した。日本発の料理だけど、使う材料はこちらの人たちになじみのあるものなので口に合うんだろう。みんな喜んで食べてくれた。

今回の唐揚げは、「食戟のソーマ」という料理をテーマにした漫画(アニメもある)に出てくる唐揚げのレシピを参考にしたのだが、これがかなり美味しかった。仕込みの時に、にんにくやしょうが、しょうゆ、酒などの基本の材料に加えて林檎と玉ねぎをすりおろして入れる。スパイスにブラックペッパーと一味唐辛子も(今回はなくて断念)。りんごと玉ねぎのおかげで身がやわらかくできた。

夫の親友(アニメ好き)に話すと、「これ超美味しい!!第5話に出てくるやつでしょ?」とかなり興奮気味。彼はわたしがこれまで近しくなった人類の中で、ダントツでかい。2位の夫にものすごい大差をつけて1位。ならぶと夫が小さく細く見えるから困る。お調子者だが、人当たりがよくとても優しい。彼をはじめ、夫のよき友人たちと共に飲んで食べて遊んで笑って、とても賑やかな夜だった。

 

  

今朝、右腕と手先がうまく動かず筋肉痛のようになっていたけれど、今料理のラインナップを見て気づいた。みじん切りとかダイスに切るのとか、とにかく細かいカット作業が多いものを詰め込みすぎていた。以前こちらのオイスターバーのキッチンで働いていた時にこんな風に細かく切る作業をよくやったなあ、と思い出す。すぐに「あ~手痛!」となっているわたしをよそに、ヘッドシェフはいつも包丁をスッ。スッ。と入れながら淡々と材料と向き合っていた。彼は厳しい人だったけれど、料理する姿が美しく凛としていて、わたしはいつも見ていた。料理人って本当、かっこいい。

 

 

 

 

 

わたしの夢の一つに、「テーブルがパッと華やぐ料理をサラッと作れる奥さんになる」というのがある。広々とした食卓にお友だちを招待して、または夫と二人で(そのうち家族で)、ゆったりした幸せなひとときを演出する。その第一歩として、何か月か前にいろんな国のサラダを毎週作ってみんなに振舞う、ということをしていた。

トロントに来て、幸運にもいろんな国の料理を食べる機会があるのだけれど、国によって料理の見せ方は様々で、その違いを肌で感じるのは面白い。例えば中国料理なら、厨房のフライパンからその熱々の温度のままドーン!!と大皿に盛られて出てくる豪快さと強いスパイスの香りが食欲を掻き立てる。量もすごい。来た瞬間にシンバルがジャァーーーンと鳴りそうな感じ。運ばれてきた瞬間に食らいつきたくなる。一方フランスや日本などは、バランスをとても大切にする。見た目も重要。皿の種類、余白、色彩、配置もきちんと計算して盛り付ける。皿が来たらまず、視覚でその料理を楽しむ。口に運んでそれぞれの食材の触感や味を繊細に感じ取る。料理全体が「作品」という感じ。

 

 

視覚と食欲というのは本当に強く関係しているな、と認識し出したのは夫の家で暮らし始めてからだ。そういう文化なのだろうか、この家の人たちは皿や箸の種類、色、素材なんかにはほんとうに無頓着で、銀色の軽い器(かつてのわたしはずっと犬用に用意してあるものだと思っていた)に米でも野菜でもなんでも一緒に入れて食べたりしているから、料理に関してもまあ味さえよければ何でもいいのだろうと思っていた。

けれどよく観察してみると、みな無意識ながらやっぱり見た目を美味しさの判断材料にしている。この家庭では基本的に毎日中華かベトナム料理が出てくるのだが、肉メインの料理の場合、どうしても色合いが茶色っぽくなる。例えば肉+いも類のみの時なんかは必ず残る。ところが、わたしが次の日残ったそれに少し人参と菜っ葉を加えて、ついでに卵も添えて、しれっと台所に置いておくとそのうち無くなっている。同じ味付け、同じ料理なのに。わたしがもしあの肉と芋にさらに茶色を加えていても完食はされなかったはず。赤、緑、黄色が加わってみんなが「お、食べてみようか」となったんだろう。

 

料理によって器を変えたり、色のバランスを考えたりするのは楽しい。かなりピッキー(好き嫌いの多い)な義理の叔父も、わたしの料理は「綺麗で美味しいから」といつも食べてくれる。見た目で確かに食べる人の幸福度は上がるのだ。ちょっとネギを添えてみるとか、野菜の切り方を変えてみるとか、買ってきた惣菜もきちんと器に盛って食べるとか、そんなことでもずいぶん違うものだ。食べるために食べるんじゃなくて、楽しむために、幸せを感じるために食べる。将来自分で家や家族を持った時、食卓の在り方にはきちんとこだわりたい。

 

 

 

ちなみに、わたしの夫は料理人である。

嬉しくも悲しくも、わたしよりも料理がうまい。付き合って初めてわたしが腕によりをかけて生姜焼きと豚汁を作った時、生姜焼きの付け合わせのコールスローに塩を入れすぎだとダメ出しされてキッチンで泣いたことがあった(懐かしい)。彼は日本食こそ素人だが、その他いろんな国の料理を作れる。スパイスにも詳しい。レストランに行くといろいろ料理について解説してくれるので、しょうゆとみりんと酒があればだいたいどうにかなるだろうなどと安易に考えている日本人妻のわたしにとっては本当にいい勉強の場である。彼のおかげでいろんな国のいろんな美味しい食べものを知れた。

 

そういえば、友人の一人が「理想の男性の絶対条件は食べ物に興味がある人!」と断言していたけれど、今になって「確かに」と納得している。一生コンビニ・スーパー弁当でいいなんていう人とは正直付き合いづらいかもしれない、とちょっと思った。「食」はわたしにとってかなり重要な位置を占めている。まあこんな風に今「食」についてあれこれ考えられるのも、両親が小さい頃からきちんとしたもの食べさせてくれたおかげだろうから、感謝せんとなあと思う。

 

 

 

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なんだか誕生日会から脱線?して食についてあれこれ書いてしまった。まあよし。

 

 

 

 

 

ここ数週間、特に意識しながら生活していることがいくつかある。

これをし始めてからよりハッピーになった気がする。シェアしてみる。

 

1.「自分にとって心地よい空間で過ごす」

2.「会う人、タイミングを自分基準で選ぶ」

3.「お金をポジティブに受け取る」

 

この3つ。

1.「自分にとって心地よい空間で過ごす」

 

何かをする時に、自分の気分が上がる、心地よいと感じる空間で過ごす。とにかく自分の身を置く環境にこだわる。

例えばただ本を読むにしても「インテリアの素敵なカフェで読もう」と決め、実行する。その時に「メイクしてないし家出るのめんどくさい」「外寒そう」「〇〇カフェの方が安いし・・」とか色々無駄な思考が出てくるけど退ける。とにかくやる。

街を歩いている時も、自分の気分の上がる服屋や雑貨屋に入る(別に買わなくても、「可愛い♡」「あんな服着てみたい!」「落ち着く~」みたいな感情を味わえればよい)。「今金欠やし、H&M(例えば)行ってなんか見てみるか」とかはしない。

 

2.「会う人、タイミングを自分基準で選ぶ」

 

これはほんと大事だな~と最近思う。うんうん。

どうして人と会うのか?って考えた時に、わたしの場合は主に

・「自分の知らない世界を知る人から新しいことを吸収したい」

又は

・「自分の興味のある分野のことについて深く掘り下げて話したい」

 

というのが理由。愚痴大会をしたいとか、芸能ゴシップ話で盛り上がりたいとかではない。

この理由の部分は人によって様々だと思うけれど、とにかく行く前に「この集まりに行って、わたしの心は満たされるだろうか?」と自分に問うて、「うーん微妙」「違うかな」って感じるなら断る、行かない。時間は有限だし、「あの人付き合い悪いよね~」とか裏で小言を言うような人たちに好かれなきゃいけない理由もない。

これをすると、一時的に人と会う頻度が減って一人の時間がかなり増えるのである意味孤独だけれど、本当に有意義な時間を過ごせる人たちとの時間を大切にできるし、自分に正直な分ストレスがないから大分楽になる。

ただし、全く新しい場所・コミュニティに行く場合はあまり考えずにフットワーク軽く行くようにしている。最初から自分に合うかどうかは分からないし、何か新しい出会いや発見があるかもしれない。

 

3.「お金をポジティブに受け取る」

 

前にも書いたけれど、わたしは現在ビザ事情により仕事ができず、夫のお金で生活している。夫と言えど、ずっと「誰かのお金で生きている。申し訳ない」みたいな気持ちがどこかにあって、できるだけ使わないようにしていた。だけど当然、申し訳ないと思いながら生活しているとストレスもたまるし、何か購入するたびに罪悪感がつきまとう。

先日母から電話で「ボーナス出たから銀行に少しお金入れといたよ」と言われ、例のごとく「本来ならば経済的に自立してる歳なのに迷惑かけて申し訳ない」と思いながら聞いていた。

でも気づいた。

 

「これ、誰もハッピーにならない!!」

 

夫や母は、わたしがお金を受け取って「ああ、申し訳ない」ともんもんとしながら生きていくことを望んでいない。無論、わたしもそうは生きたくない。

せっかくもらうなら、わたしが少しでもハッピーになることに使って「ああ幸せだー!」と思いながら生きた方がいいじゃん。それだと渡した方も嬉しいしWIN-WINじゃないか。なんだ、簡単なことだ。

 

 

ということで、以来好きな本や雑誌を買って写真の勉強をしたり、ずっと欲しかったジーンズを買ったり、積極的に街へ出て1(上記)のような空間へ足を運んだりする生活を始めた。驚くほど気分が軽くなったし、自分の本当に好きなもののみにお金を使えていて、心が満たされている。満たされているので感謝の気持ちが増え、それが行動につながり、結果的にくれた相手に別の形で還元されるというポジティブなサイクルが生まれている。お金をもらえること=ポジティブなこと、というよくよく考えたら当たり前のことが、思い込みゆえに完全に死角にあった。思い込みって恐ろしい。本当に気づけてよかった。

 

 

というようなことです。

これらを行動に移しだしてから、さらに自分のことを深く知り正直に前向きに過ごせるようになった。ものごとがよりシンプルに、楽になった。

日々に悶々、もやもやしている人がもしいたらぜひやってみてね。

 

 

 

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トロントはすっかり雪景色。美しいけど残酷なくらい寒いです。

今日はただ、思考のおもむくままに書いてみましたとさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さあ、4度めの冬

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はろー冬。

先日クリスマスマーケットに行ってきた。炭火の香りがするほくほくのソーセージやカラフルなチョコレートでトッピングされた可愛らしいプレッツェル等には目もくれず、写真ばかり撮っていた。夫に三脚を持ってもらっていたことを(正直なところ、その時は夫の存在自体を)すっかり忘れて一人ひょいひょいと目線の行くまま、好奇心のおもむくままに歩き回っていて、「三脚まだ使うの?もうしまっていい?(不機嫌)」と後ろから言われてやっと「ハッ。ごめん!」と気づく。そういえば去年も置いてけぼりにしてしまい後で怒られた。それくらい、このディスティラリー地区のクリスマスマーケットはほんとうにフォトジェニックで心を持っていかれる。

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散々トロントの夏は最高、秋は最高などと言ってきたが、そういえばカナダは冬も最高(visualに限る)だった。煉瓦造り×電灯×雪とかね。街全体の彩度が少し落ち着いて、赤や金や白(雪)がぱっと映える感じ。

 

 

 

最近はもっぱら一人時間を楽しんでいた。全然人と会っていない。人知れず黙々とインプット作業を行っていた。一カ月ほど前だったか、読みたい本があったので、ちょうど日本から荷物を送ってくれるという母親に頼んで一緒に4冊ほど送ってもらった。本の重さのせいで送料が高くついたらしく、箱に貼ってある伝票を見てぎょっとした。ごめん母。。。これからはAmazonの海外発送で頼むか、帰国時に一気に買って詰めて帰ろうと反省。

 

とはいえこの4冊、もうすぐ全部読み終わるのだけど、全ての本が怖いくらいに今のわたしにどんぴしゃだった。完全に必要なタイミングで来た。どれも違う分野の本なのに。

その中のひとつ加藤昌治氏の「考具」についてすこし書いてみる。

 

筆者が普段実践しているアイディアの引き出し方、そのために有効なシンキング・ツール「考具」の使い方について解説してある。実際に「考具」を試しながら読んだ。これがとても面白い。自分がどんな風に思考しているのかが見える。読んでいてなるほどと思ったのは、「アイディアを考える段階での頭の使い方は、とにかく広げまくること。実現可能性も無視、脱線もOK。広げられるだけ広げて、その後で絞る」ということ。これが意外とできていない。自分の思考回路を俯瞰してみると、アイディアを出す段階から「いや、これはないでしょ」「これは予算的に無理」とほぼ無意識に判断してそもそも頭から排除していた。なんてもったいないことしてたんだろう。。今は意識的に、その時それがいかにくだらないアイディアだと思えたとしても、頭に浮かんだことはとにかく書き出すことにしている。この「頭の中にあるものを一度外に出す作業」というのがとても重要らしい。

他にも、例えば考具1「カラーバス」では、日常生活で特定の「色」に注目する。例えば朝「今日のカラーは赤」と決めたら、その日1日街を歩く時も電車に乗るときも、とにかく赤いものを意識する。これはわたしもやってみた。色については、写真をやっているので普通の人よりわりと色彩を観察しながら生きているつもりではあったけれど、意識的に特定の色に注目して過ごしたことはなかったのでかなり楽しめたし発見がたくさんあった。赤い毛糸の服を着た犬と、コーヒーショップの赤い看板と、路面をゆく赤い車体の電車が妙に浮き上がって見えて、無関係な3つのものが「色」よって急に繋がる。同じ「赤」というくくりの中にも様々な「赤」があることに気が付く。わたしはちょっと褪せたレトロ調の赤色が好きで、それが看板のように文字と一緒になっているものに惹かれる。文字を見るときにどんなフォントかもけっこう見ている。あと、色がごちゃごちゃした中にある赤よりもシンプルな背景の中にぽつぽつ配置されている赤を美しいなあと思う。こんな風に自分の傾向みたいなものが分かるのも面白い。カラーバスのほかにも、「七色いんこ」や「マンダラート」、「オズボーンのチェックリスト」などいろんな考具がある。これからいろいろ試したい。リンクは下。

考具 ―考えるための道具、持っていますか?

考具 ―考えるための道具、持っていますか?

 

 

 

このインプット期間に、面白い人を見つけた。カナダ在住のバンドマン、且つフリーランス・デザイナーの男の子。見つけたと言っても実際に会ったことはなく、たまたま彼のデザインをinstagramで見て一目ぼれし、すぐにブログを読み始め、「この子すごい!会ってみたい!!!」と思うようになった。いろいろ言いたいことはあるけど、百聞は一見に如かず。こちら彼のブログ。

arairio.com

とっかかりは彼が自らデザインしたというグッズだった。超かわいい。色合いも好き。ぜひとも購入したいけど、かなりのものが既にSOLD OUTだった。それから考え方や生き方。素直で真面目で、パッションに溢れていて、若くして「自分で自分の人生を創っている」人。こんな風に躊躇なく、コンスタントに自らを成長できる環境に放り込めるのはすごい。しかもそれを全力で楽しんでいる。わたしが彼を知ったのは、いろんなことでずーんと底に落ちている時だったから、何というかこの文面から伝わるパワーにすごく勇気をもらった。最近は「わたしもこうしちゃいられない!」と自分を奮い立たせる原動力に確かになっているし、少しずつだけど進むことができている。このタイミングで知れてよかった。先日、起きてInstagramを見たらたまたま彼がStory LIVEをやっていて、初めて映像の中の動いている新井くんを見た。声や喋り方がやわらかく優しく、よい意味で予想と違っていた。超熱いんだけど、同じくらいとても謙虚で素直。やっぱり23歳なんだな~と思える可愛らしさもあった(わたしもそんなに変わらないんだけれど)。若くて、わたしたちと同じようにいろんなことがまだまだ手探り状態。だけど彼の「生きる態度」にはほんとうに見習うべきものがあるし、人としてすごく心惹かれる。「今度本を出すんだ!」とLIVE中に告知していたので、なんとかしてカナダにいながらゲットできないかと目論んでいる。

いやあ、ホント、わたしもこうしちゃいられない。がんばらなきゃなあ。

 

 

つい先日、義妹つながりで撮影の仕事をいただき大学生を撮ってきた。みんな集合時間に遅れて外での撮影を急きょ室内での撮影に変更したり(日が暮れた)、ヘッドショットのはずが1人の女の子のわがままにより途中で腰までのショットに変更したりと「カナダ・・・大学生・・・(苦笑)」となる場面もあったけれど、まあ無事終了。わたしもクライアントも気持ちよく仕事をするためには、お互いがお互いの主張を尊重しながら一緒にいい作品を作ろうと努力する必要があって、そのためには事前のコミュニケーションを充実させることが不可欠なんですね。今回はここの部分が足りてなかったな、と反省した。

①事前に「作りたい写真のイメージ」を明確にしてお互いがしっかり理解する。

(その時クライアントが想像しにくそうな場合はわたしが積極的に提案してあげる)

②わたしが主張べきことはきちんと相手に伝える。遠慮しない。

 

もちろん準備してもなお、撮影において予想外な事態というのは起こるんだけれど。それらに余裕を持って対応できる柔軟性を身に付けるにはまだまだ経験が必要。これから日々トライアンドエラーを繰り返しながら成長していければよいなと思う。

 

改めて思ったんだけれど、自分で仕事をして報酬をいただけるというのはほんとうに嬉しい。「それが仕事でしょ」と言わればそうなんだけど。フリーランスというのは自分で自分の仕事に値段をつけなければならず、つまり自分で自分を目に見える形で評価せねばならず、それもあってか報酬をいただいた時は「はぁぁああ、ありがとうございます(涙)」となる。間違っても「わたしの仕事よ。これくらい当然でしょ?」とはならない。お仕事をいただけるというのは本当にありがたい。自分の好きなことで人の役に立つ、しかもそれでお金をもらえるって最高だなあと思う。もっと人に与えられる自分になれるよう、努力を続ける所存。

 

 

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なんだか無性にホットチョコレートとシャンパンが飲みたくなるこの季節。

これからさらに寒くなるんだろうなあ。

最近口ずさんでいる曲。

www.youtube.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近考えていること





最近考えていることがある。



ここ最近の自分がさっぱり冴えなくて嫌いだった。今は抜け出してめちゃくちゃハッピー!というわけではないものの、すこし俯瞰して自分を見られている分ほんの少しだが前進した気がする。自身のために文字に起こしてみる。
(今回ある心理学の本をもとに思考しているので読んでいない人にはなんのこっちゃらという感じだと思う。プラス、完全に自分の頭の整理のための記事なのでそこは悪しからず。)


「嫌われる勇気」に引き続き、「幸せになる勇気」を読んだ。アドラー心理学実践における現実的・具体的な疑問に答えつつ、その方針が提示してあった。
「嫌われる勇気」では、人へのアプローチの仕方について「人に対して、行為レベル(その人が何をしたか)ではなく存在レベル(その人がそこに存在していること)で感謝する」ということが述べてある。「幸せになる勇気」ではさらに人間関係構築の入り口は、尊敬であり、尊敬とはありのままにその人を見ることである」とある。


・尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。

・尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである。

・彼らが変化する保証はどこにもない。(中略)まず「あなた」がはじめなければならない。いっさいの条件をつけることなく、どんな結果が待っていようとも、最初の一歩を踏み出すのは「あなた」です。


これについては理解、納得はしたものの、実践できていない。というよりも、ある人物(仮にKとする)に対して実践を自ら放棄していた。日々、特に最近、わたしのKに対する嫌悪感は強まっていて、足音や声を聞くだけで反射的に嫌な気持ちになってしまう。本心を言えば、出来るだけ関わりたくないと思っている。今の状況下では関わりをゼロにはできないのだけど。

出会った当初はKの不幸な境遇を理解し、共感し、狂気的な行動等に対しても寛容であり続け、過度な干渉にもある程度応えて来た。出来ることならKが変われるようにサポートしたいと本気で思い、色々試した。


けれど今、人間関係の入り口であるはずの「尊敬」自体を放棄している。「存在レベルで感謝」していない。トライすらしていない。
仮に今わたしが教員として教壇に立ったとして、クラスの生徒全員をここでいう「尊敬」という態度をもって接する努力をするか、といえば、全力でする。その意志とエネルギーがある。わたしの働きかけによって、子どもたちが人生に立ち向かう勇気を獲得できる(可能性かある)のであれば、精一杯トライする。


結局のところ、わたしはその対象によって尊敬するか否かを変えていることになる(よろしくない)。目的論で言うと、「わたしはKと関係を構築したくないがために(目的)、尊敬という態度を放棄している」ということになる。目的はいつも先に来る。


わたしの疑問

:わたしは自分に多大なストレスや負荷がかかろうとも、相手が変わるかどうかが分からなくても、Kを含めすべての人を「尊敬」し、存在レベルで感謝出来るような努力を、本当にしなければならないのか。

:それとも、自身の今この瞬間の幸せを優先し、存在自体に嫌悪感を抱いてしまうような相手は思い切って自分の人生から距離を置き、無関係な場所で一緒にいて幸福だと思える人々と共に人生を歩めばいいのか。

:もしくは↑この2つのバランスを取って人と接するのか。 (バランスを取るのは難しい気がする)


もちろん、理想はいちばん上なんだろうけれど。人によって使い分けるものではないし、これを突破口にしてあらゆる他人と横の(対等な)関係を築くことが出来るようになるかもしれない。










これとはまた別に、承認欲求や貢献感について考えていた。

わたしはVISAの関係等でかれこれ2年近く仕事をしていない。職場というコミュニティを持っていない。夫の家で彼の家族と暮らしているが、この家族への所属感もあまりない。友人はいるけれど、 出かけて楽しむだけであまり深い話はしなかったり、留学生とは仲良くなっても結局いっとき経つと自国へ帰ってしまい、毎回寂しい思いをする。


仕事をしていないので時間は無限にある。本を読んで学びを得たり、写真を撮りに行ったり、何か小さな新しいことに挑戦してみたり。最初の1年くらいは楽しかったように思う。
しかし時間はあるけどお金はない状態が2年近く続いている今、精神状態がどうも不安定になって来ている。わたしはあまり感情的なタイプではなくて基本常に平穏なのだけれど、最近波が激しい。やらなければいけないことがすぐ出来ずに後回しにしたり、それに罪悪感を抱いたり、学びを得た後に意気込んで新しいことを始めても続かなかったり、ちょっとしたことで心が折れたりしている。
最近夫の出勤に合わせて早朝に弁当を作っているのだが、何度か寝坊して作りそびれ、ひもじい思いをさせた。そんな自分が嫌になって泣いた。自分でも驚いた。夫は怒らなかったし、「眠いよね、いつもありがとう」なんて言ってくれる時もあったのに、そんな優しい言葉も全く慰めにならずさらに泣くはめになった。


なんでそんなことになったのかと考えた時、ひとつは自身への劣等感があると思う。ここでわたしが感じている「劣等感」は、誰かと比較して自分が劣っている感覚というよりも、「理想の自分」に到達出来ていない現在の自分に対する劣っている感覚という方が正しい。無数の「わたしはこうなりたい」という欲望や目標、「理想のわたし」を掲げながら、それが達成できていないことに対する焦燥感や苛立ち。この無職期間にいろんな本を読み、いろんな人や生き方に出会い、「わたしは将来こんな風になりたい」「今すぐにでもこうしたい」というワクワクした気持ちが膨らんでなんでも出来るような気になった。小さな挑戦を繰り返してはやめ、繰り返してはやめ、その度に目の前に転がっている現実を目の当たりにし、そのギャップに落ち込んだ。


これはわたしが、他人以前にわたし自身を存在レベルで受容していない、ということである。つまり「普通であることの勇気」が足りていない。自分はここにいるだけで価値があり、誰かの役に立っている、と思えていない。今回身をもって気づいたことは、これは他人に承認されることで満たされるものではないということ。周りにはわたしを役立たずだと罵る人はいないし、夫は毎日「側にいてくれるだけで十分だ、ありがとう」と伝えてくれているのに、尚自分に価値を見出せないのはなぜか。それは、じぶんが誰かに貢献しているという感覚「貢献感」はわたし自身の主観によって得られるものであって、他人に承認されて満たされるものではないからであり、今現在わたしは自分が役に立ってないと思い込んでいるからである。



なんてこった。(書いていてびっくり)逆に言えばわたしが自分の存在価値を認めて、普通である勇気を持ち、いまここを一生懸命生きればいいのだ。だって幸運にも、わたしの大切な人たちはわたしに存在レベルで感謝してくれているんだから。あとはわたしが変わるだけということ。

さらに、人間の幸福=貢献感ということから言えば、 仕事ができないにせよ人に何か与えられることを始めるといいのかもしれない。今は理想ばかりでそれがきちんと形に出来てないから悶々としている状態なのだ。目に見えた形であってもいいし、なくてもいいのかもしれない。例えばわたしの特技のひとつは人の話を親身になって聞くことなので、それだけでも貢献感(幸福)には繋がる気がする。友達の話をカフェでただ聞いている→わたしは友達が自由に話してリラックスしたり、ストレスを解消したりする手助けをしている(貢献感)。というふうに。本当に、これはぜんぶ自分がどう意味づけするかですね。





こんなことについてあれこれ考えていた。人に言わせれば「そんなに深く考えなくても。」ということなんだろうけれど、わたしにとってこれは重要課題であり、おそらくまた作中の青年のように少しずつ前進しながら、その都度新しい悩みと向き合いながら、わたしなりに歩み続けるのだと思う。

「写ルンです」でトロントの夏を撮る。

現像を頼んでいた「写ルンです」の写真データが届いた。



:Scarborough



:Ontario lakeから望むToronto city。この時間帯の空×水辺は最高。


写真データをDropboxでシェアする形で、1週間ほどで出来た。データではあっても、久しぶりに目にするフィルム写真に予想以上に心が躍る。
この独特の味がいい。フィルムならではのツブツブ感、色味、滲み出るノスタルジックな空気がたまらない。






そもそも数ヶ月前、溜まっていた家電屋のポイントを利用して半ばノリでinstax-mini8(いわゆるチェキ)を購入したのが始まりだった。
普段はデジタルカメラで人や町並みを撮っているのだが、instaxを買って以来撮影やお出かけ時に鞄に入れて持ち歩くようになった。
何度でも撮り直しのきくデジタルカメラとは違い、フィルムカメラは一枚一回きり。しかもinstaxは1つのフィルムで10枚しか撮れない。シャッターを押す前の数秒、よしここだ!という瞬間までいろんなことが頭をよぎる。いい意味で躊躇する。この「間」が楽しかった。


今春夏はポートレート撮影のため、デジタル一眼と共にトロント市内を歩き回り、様々なバックグラウンドを持つトロントニアンたちを撮っていた。当たり前だが、撮影の日はカメラ本体・レンズ数本・三脚、と重装備である。撮影中はと言うと、ライティングは、カメラの設定は、モデルへの指示は、と常に頭はフル回転。撮影後はどっと疲れが出る。


その点、このinstaxmini、電源を入れて適切な明るさを点滅表示で確認し、そこにセットしてシャッターを押すだけで写真が撮れる。しかもその場で出てくる。撮影後の編集もない。世界を見渡し、切り取りたいと思う瞬間をただ切り取ればいいだけだ。このシンプルさが、思いのほかわたしの心を自由にした。撮影続きで頭の中がぎゅうぎゅうになっていたのだと思う。何もない天気の良い休日はinstaxが活躍した。
ラベンダー畑、遊園地、港、神社、海、友人との食事、結婚式。どこにでも持ち出して思うまま感じるままに写真を撮った。



こうしてフィルムの魅力に気づき始めたわたしは、写ルンですを手に入れた。 8月に日本から戻って来てしばらくたったある日、妹がくれたのだ。中学校の修学旅行以来の、写ルンです。ピリピリと封を切ると、懐かしいフォルムがでて来た。未だに、裏に名前を書く欄がある。フラッシュボタンを上に上げると、チュイーンという音とともに四角い部分が赤く点灯する。撮影するまで巻いてはいけない(シャッターが軽くてすぐきれてしまうため)とは知っていても、このジャリ、ジャリという指の感覚が爽快でつい巻いてしまう(結局それで2枚ほど没にした)。

丁度いいタイミングでトロント・アイランドへのピクニックのお誘いを受けていたので、ポケットにつっこんで一緒に出かけた。
そう、このポケットに突っ込める、バッグにポンと投げこんでおける感じ。使いたい時にサッ。カシャッ。ポン。この手軽さがいい。デジタル一眼を持ち歩く時はそれなりのバッグにそれなりの保護をして入れて置かねばならず、重いし、取り出す際いちいち気を遣う。
写ルンですの、ポケットに入ってることすら忘れるくらいのライトさに、なんだか気持ちまでも軽くなる。
この日は天気も良く、まさにピクニック日和だった。


: 湖に突き出た橋の先で。




: 望遠鏡を覗く少年。この望遠鏡、古くてメタリックでいい感じだった。




: 島を去る前に船の上からもう一枚。




: 街中でも写ルンです。トロント市庁舎前。




ストリートカーのある風景がすき。最近言われて気づいたけど、トロントは赤いものが多い。



夏のトロントは非常に気持ちがよい。湿度が低くカラッとしていて、特に湖の近くは風が心地よい。冬が長く厳しいトロントでは、人々は春夏になるとここぞとばかりに外に出てその喜びに浸る。春先に動植物が冬眠から覚めてみな一斉に活発になるのと同じように、暖かくなると一気に街のハッピー度が上がり、用はなくてもとにかく外に出て何かしたい気分になる。真夏は夜9時ごろまで明るいので、遊びに夢中になっていたらもうこんな時間、なんてこともよくある。


今年の夏日本に帰って感じたのは、湿度が尋常ではないということ。湿度と汗で身体全体の皮膚が呼吸困難になり、シャワーを浴びるか涼しい場所に避難してさらさらシートで全身を拭くかしない限り一日中ベタベタがつきまとう。気づけばカナダでの生活が長くなればなるほど、「日本の夏、無理だ。。」となっている自分がいる。冬は日本で、夏はカナダで暮らすのがベストだなと思う。できれば将来はそうしたい。


例年になく、つい先日まで半そでで外を歩けるほど気温が高かったトロントだが、さすがに最近少し肌寒くなってきた。カナダの国旗の象徴であるメープルをはじめ、あらゆる種類の木々が色づき始めている。先日また新しい写ルンですを入手したので、早く紅葉の美しいハイキングコースを見つけて撮りに行きたい。

ギフトカードって、イイ

先月の誕生日に、数名からgift cardというものをもらった。

ちなみにギフトカードというのは、メッセージを書いて贈る紙製のカードのことではなく、特定の店舗で使えるカードに贈り主の意思で一定の金額を振り込んでプレゼントするというもので(ご存知だろうが一応説明)、個人的には日本ではあまりもらったりあげたりする機会のなかったものである。Starbucksと、LCBO(トロントの酒屋)のギフトカードをそれぞれ男性の友人からいただいた。














気づいてしまった。
ギフトカードって、悪くない。
全然悪くない。むしろ、とてもイイ。




どうしてだろう、ギフトカードってなんだか素っ気ないイメージがあったのだ。お祝いの場で「ギフトカード、はい」ってちょっと手抜きしてる感が出るような気がして、今まで自分ではやらなかった。もっとこう服とか小物とか、「あなたのことを想って選んだの」風が伝わるプレゼントの方が、グッとくるんじゃないかと思っていた。


しかし突然もらう側になった今回、これが、意外と嬉しい。
酒屋のギフトカードを貰って以来、土曜に街中の酒屋に立ち寄っては毎週違う種類のビールを数本買い、週末飲み比べ大会をしている。楽しいし美味しいので、写真を撮ったり(日本に比べ種類の多さはもちろんパッケージも洒落ている)、味のメモを取ってみたり、気づけばほとんどプチ趣味的なものになっている。


これは、自分で普通に買うのとはちょっと違う。
一定の金額内で一時的に楽しむという点で非日常感が増し、ワクワクする。小学生の時、遠足前日に100円玉数枚と共にお菓子売り場に放り出され、「さぁ、何でも好きなもの買いなさい」と言われたときのあの高揚と似ている。あれの大人版である。


さらに、物理的な"もの"でないところがよい。

ものというのは厄介で、どんどん増える。私はものが増えるのがあまり好きではない。というか、年を経るにつれ好きでなくなってきた。昔は不必要なものをやたらコレクトしては満足していたような時期もあった。けれど今はできるだけ身軽でいたい。物欲がない訳ではない。今でも服や食器や本は好きだ。ただ買い物は1人で行くことが多いし、買う時はものすごく選んで買うので、これをプレゼントを選ぶ側に立って考えてみると我ながらとてもめんどくさい(ごめんなさい)。

そして、店舗にもよるが最近は可愛いギフトカードも多い。今回頂いたスターバックスのものはデザインが秀逸で美しく、財布にあるだけで気分がいいのでとても気に入っている。



こうなると、ギフトカードを贈るということは味気なくも素っ気なくもなければ、手抜きでもない。特に今回は男性2人から頂いたという事を考えると、一周回って気が利くし洒落ているとさえ思えてくる。思うに男性が恋人以外の女性へ物を贈るというのはけっこう難しい。下手に慣れないブティックや雑貨屋を探し回るより、相手の好きなものをある程度考慮して素敵な柄のギフトカードと共に「これでなんでもあなたの好きなものを。」と小さなメッセージを添えて渡せば、相手は(少なくともわたしは)十分に嬉しい。もちろん、お酒の飲めない人に酒屋の、ゆるふわ森ガールにZARAのギフトカードなどはナンセンスなのでそこは渡す相手を考慮する必要があるが、それはさほど難しいことではないはずだ。



補足。中には人の欲しいものを言われずとも把握していて、ドツボのものをプレゼントしてくるセンスのいい人もいる。実際今回、撮影用の万能リフレクターをくれた友人がいた。まさにわたしの欲しかったものだった。こういうものは使う時のことを考えるとわくわくするし嬉しい。その時その時何が欲しいかというのは変わるので、本人とある程度密な関係でなければならず、その点では難易度は高い。
さらに補足。別のパターンで、全く予想だにしていなかったものをくれる人もいる。これも楽しい。自分では買わないものをもらうと、それを使うことによって未知の体験ができるのを想像し、これまたわくわくする。

結局、人様から何かをいただくという時点でありがたいし嬉しいのだけれど、何が言いたいのかというとわたしのギフトカードへの勝手なマイナスイメージが今回一気に払拭され、新たな発見と喜びを体験できて万歳!と、いうことなのだ。(長々とスミマセン)もうすっかり「いやあ、ギフトカード、イイね。」となっている。



ちなみに、日本の事情はよく分からないが、こちらカナダ・トロントではギフトカード文化なるものがわりと浸透しているように感じる。わたしは自分がもらったのは今回初めてだが、しょっちゅういろんな場面でプレゼントされているのを見かける。多くの店舗では季節や時期によってカードのデザインが変わるので、それを楽しめるのもよい。ギフト絡みでもう一つ、「プレゼント用です。ラッピングお願いします」と言ってその場で無料で包装してくれる店舗というのは、ほぼない。というかそういう習慣自体がない。買ったものをそのお店でもらえる紙袋等に入れてそのまま渡す、というのが普通だ。もしくは自分で包装紙を買って包む。なので日本の店舗でのそういうサービスは(環境に良いかという問題は置いて)純粋に嬉しい。




今、文字を打ちながらビールを飲んでいる。フルーティなビールをよく飲む。グレープフルーツ味が爽快で好きだが、今回はストロベリーにしてみた。
来週また、違う種類を試してみよう。遠足のおやつを選ぶこどもに戻った気分で、リカーショップへ向かう。

カナディアン兄妹がみつけたクール・ジャパン

妹が帰ってきて半月ほど経った。
日本に行く直前にボーイフレンドと別れたばかりだったが、もうさっさと新しいのを見つけている。





ところで、今回妹と一緒に日本の夏を過ごしてみて改めて感じたことがある。外国人から見た日本というのは面白い。
彼らのカメラにある写真を見ると、どうして撮ったのかわからない被写体の写真がよくある。
一緒に出歩くと、変なものに目を輝かせる。面白いので、その度になんで?と聞いてみる。

夫が去年来日した際に一番初めに撮ったものは、自動販売機だった。アメリカ人の友人、ブルース(仮名)は白い軽トラに積まれた藁の山を撮っていた。

ここらでカナダ人の夫とその妹が発見した「クールなジャパン」の中から、「へ~」となったものをリストアップしてみる。


(夫の場合)

  • 軽自動車

ラパンやタント、ムーブなどといった日本の軽自動車。「小さくて形も色も可愛い!おもちゃみたい!」らしい。
カナダの車は高級車以外は色もデザインもなんだか平凡。毎年雪が大量に降るのでほとんどの人は定期的に洗車したり磨いたりしない。

  • 喫煙ルーム

空港や駅などでよく目にする喫煙者専用の部屋。なぜみんな集まって吸うのか。外に出て吸えばよくない?気持ち悪くない?ということらしい。
ちょっと同感。あまりにも異様なので夫はそれを『Smoking room』ではなく『Cancer(癌) room』と呼んでいた。

  • コンビニのフェア

某コンビニエンスストアでおにぎりを二つ買ったら、レジでONE PIECEのクリアフィルをもらったらしく「???」となっていた。
おにぎりを200円分以上買うと一つ無料でギフトがもらえる、みたいなフェアが定期的にあるのだと説明すると「日本のコンビニ素晴らしすぎる!」とその後それだけのためにコンビニに通い詰めた(ワンピース観たことない)。

  • 缶コーヒー

わずか120〜130円で買える缶コーヒー。種類も豊富。美味い。トロントでコーヒーとなると、Starbucksなどのチェーンもしくはローカルなコーヒー店まで足を運び2〜5$払ってゲットするしかない。彼のお気に入りはBOSS微糖。

  • 焼肉屋のコンロ

チェーンの焼肉店へ行った時のこと。肉を焼き始めて煙が出てこないのに気づき、「煙は全部下に吸い込まれるようになってるんだよ。」と説明すると、「Wooooo that's so cool!!!」と食べる前からテンション⤴︎。国産ではなくオーストラリア産の肉だったが、味も最高!と大絶賛。ハイテクジャパンの印象が一層強まったそう。

  • ゴミ箱がない

日本は街中にゴミ箱がほとんど見当たらない。彼の育ったトロントの街には、数十メートルおきに公共のゴミ箱が設置されている。にもかかわらず日本の方が道にごみがなくクリーン。日本人の身体には『ごみは持ち帰るもの』という感覚が染みついている。

  • 家庭用トイレ

日本の家庭用のトイレの上部には、大抵小さなパイプが付いていて流した後にそこから水が出るようになっている。「まさか流した汚物がこのパイプから出ているのでは…」と思ったらしく心配そうに聞いてきた。

  • ゆるキャラ

各県にゆるキャラというものがいて、それが地域を盛り上げるために歌ったり踊ったりPR活動のためにイベントにおもむいたりしている。大人も子どももそれらを可愛がり応援する。夫「日本人ってやっぱり変だね」。

  • アニメの威力

コンビニにアニメ。パンやお菓子のパッケージにもアニメ。終いには警察庁から出ている万引き防止のポスターもアニメ。アニメ文化浸透度とその威力にWOW。

  • 飲み放題食べ放題三千円

飲み物も食べ物も好きなだけ食べられて30$(3000円)代という日本の居酒屋のコスパの良さ。外食代が高くつくカナダの人たちにとってはまさにヘブン。カナダには『All you can eat』いわゆる食べ放題の店はあるが、飲み放題というものはない。飲み物は種類にもよるがだいたい一杯約7~8$(700~800円)はする。しかもそれに消費税13%+チップ(最低でも合計金額の10%)が加わる。体格が良くよく食べる夫は特にこの制度にはものすごく感謝していた。

  • ヴァンダリズム

「日本にはヴァンダリズムがない」と夫。もちろんなくはないだろうが、他の多くの国々と比べて、美しいものや文化的なもの、公共のものを守ろうとする人々の意識は高い。そういう風に教育されているからだと思う。
(ヴァンダリズムとは-ヴァンダリズム - Wikipedia



(義理妹の場合)

  • アイスクリーム

コンビニやスーパー、薬局などで売られている100円前後のアイスクリーム。種類がとにかく多い上に安い、美味い、パッケージが可愛い。近所の大きなドラッグストアのアイスクリームコーナーへ連れて行った際、店奥からずらーっと並ぶ冷凍庫とその中にこまごまと陳列されたアイスクリームたちに一瞬で目を奪われ、5つも買って店内のベンチで試し食いしていた。トロントでアイスクリームを食べるには、アイスクリームの専門店で4~5$出すか、フードトラックで売っている甘々でチープな味のものを、それも2~3$出して買うしかない。

  • 100円均一店

ダイソーやSeriaなどのいわゆる『100均』に興奮し、初日から8千円も使ってしまった義理妹(愚か者)。ちょろっと覗くつもりが4時間半も買い物に付き合わされた。どうやったら100均でそんな膨大な時間と金を費やせるのか私たち日本人は理解に苦しむが、彼女のような外国人観光客の間では珍しくないらしい。彼女は主に文房具やキャラクターものの雑貨、旅行用のバキュームバック等の便利グッズを購入。

  • 女子が可愛い

来日の際、関空から伊丹へ移動したという彼女からメールがきた。恥ずかしさのあまりトイレに駆け込んだというので理由を聞いたところ、「空港にいる日本人の女の子たちが可愛すぎて眩しすぎて、髪ぼさぼさ&すっぴんで歩いている自分が恥ずかしくなり、いそいでメイクをしに走った」という。その後の日本滞在中にも2人で街中を歩いたりしていると何度も「日本人はすごくおしゃれで可愛い!!」と繰り返し言っていた。もちろんおしゃれを心から楽しんでいる可愛い日本人女子はたくさんいる。しかし日本社会の外見へのExpectation(期待度)が高い故に「めんどくさいけどマナーだから嫌々」やっている女子が多いのも事実。カナダでは『個人は個人』なのでわりとみんな他人の外見に無頓着だし、『すっぴんは恥ずかしい』という概念がないため、とくにパーティなんかの特別な場合でなければ平気で街をすっぴん×Tシャツ×ジーパンで歩ける。妹にはそのままで十分可愛いんだから気にするなと言っておいた。

  • 衣料品店の床が綺麗

床が綺麗というのは、別に丁寧に磨かれていてピカピカしているという意味ではない。服が床に散乱していない、という意味。トロントでは、店にもよるが若者に人気で価格もリーズナブルなForever21やH&M、ZARA、GAPなどの店に入るとほぼ100%床に商品が散らかっているのを目にする。これについてはわたしも謎でしょうがないので今度試しに人が服を手に取って床に落とすまでの過程を観察してみようと思うが、日本でこんな光景は新年の大売り出し限定セールなどでない限りまず見ない。妹もこれには感動し、自らの衣料品の扱い方を見直し改めていた。

  • さらさらパウダーシート

夏が短く湿気の少ないトロントでは、それの必要性を感じない。妹が日本に来たのは夏で、それも毎日35度前後プラス湿気という異常な気象に北国生まれの彼女はかなり参っていた。そこでビオレ・さらさらパウダーシートの出番。ある日外出先で買ってあげたら「My skin can breathe!!!!」と大喜び。汗のにおいが消え一瞬でフローラルになり、しかも全身さらさら。合気道教室に通い始めた後も愛用していた。

  • メイクアップ用品

人種の多いカナダでは、自分の肌に合うメイク道具を探すのは至難の業。妹いわく、MACやNYX、Maybelineなどのカナダでわりと人気のあるブランドの化粧品はアジア人の繊細な肌に合わないことが多いらしい。さらにナチュラルメイクが可愛いとされる今日の日本では、例えば口紅であっても薄めの色のあまりマットでない、潤い成分配合のものなどが多く、なんでもかんでも“TOO MUCH”な北米の化粧品とは違う。しかもクオリティが素晴らしい(妹談)。

  • 人々の反応

不運にも、日本でストーカーにあった妹。駅で泣きながら駅員に状況を説明している時の周りの人たちの反応に違和感を感じたという。トロントで同じ状況が起こった場合、人々はまず「何が起こったんだろう」「何か助けられる手段はないだろうか」という目線で彼女を見る。慰めや励ましの言葉をかけてやったり、対処方法を具体的に伝えてくれる人がいるかもしれない。けれど日本で彼女が人々から感じたのは「戸惑い」のみだったという。ただ見て、戸惑うだけ。奥ゆかしさを美とする文化故か、わたしたちは感情を欧米人ほど表に出さない。だから急に感情的な大人を見て困ってしまったのだろう。これもまた「表現する」ことにおける文化の違い。

  • がちゃぽん

「SMALL・CUTE・QUALITY」が溢れるジャパンだが、その一つがガチャガチャ(妹談)。バリエーションが豊富で可愛らしく、何より何が当たるかわからないわくわく感が1コインで味わえるということで、おなじくがちゃぽん好きな私の母と2人で少女時代にタイムスリップし、ガチャガチャと回してはその度にキャッキャと盛り上がっていた。

  • 巨峰

「日本のフルーツは美味しい!」と絶賛していた妹。特に巨峰が大好きになった。最初に食べ方が分からず誤って皮ごと食べていたのは、カナダのぶどうはマスカットのように皮ごと食べるタイプが大抵だから。ジューシーでやわらかくて甘くて、渋みがない。桃も大好き。






と、ざっとこんな感じ。
目の付けどころが私とはもちろん、兄妹間でもだいぶ違うので面白い。また思い出したら付け足すことにする。