寒国しろくまと夢のたび

カナディアン夫と暮らすトロント在住フォトグラファーの思考録

プチ夏休み

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日本にいる。

 

気が付けばもう2週間近く経っている。

その間歯医者に通ったり、長い付き合いのある友人と神社を参ったり、高校時代の友人の家庭を訪問し赤ちゃんと遊んだりしていた。とりわけ何かしているというわけでもないが、充実している。

 

今回の帰省の意味合いとして、とにかくあの家から離れる、というのがある。

トロントでは夫の家族と住んでいた(帰ったらまたしばらく住む)のだが、義理の母のクレイジー具合がちょっと、いやかなり病的で、わたしは新婚早々人生最大のストレスを抱えていた。同じタイミングで夫の祖母に続き父が癌で亡くなった。大変な時に嫁に来てしまい、「結婚って…」と途方に暮れそうになったりもしたが、「いやいやまだまだこれから!わたしが暗くてどうする!」と自身を奮い立たせ、夫のサポートに徹した。しかしながら一番のストレスの原因である義理母の言動が良い方向に向かうわけもなく、「これは休息が必要」となり日本に帰ってきたわけだ。

 

帰ってきてからは母と暮らしているが、彼女とは波長が合い一緒にいて居心地がいい。常に適度な距離が保たれていてお互いほとんど干渉しない。小さい頃からわたしを一人の人間として見てくれていたので、変に親ぶって上下関係をつけたりもしなかった。それだから今でも一対一できちんと対話できるのだろう。

何より彼女は「課題の分離」ということについてよく分かっていて(父もそうだったが)、わたしがやるべきこと・やろうとしていることに対していつも「見守る」姿勢を一貫していた。「見守る」というのは、「ほったらかしておくけど、どうしても助けが必要な時は頼ってね」というスタンスである。

「課題の分離」という言葉は、わたしが今年に入ってから読んだ岸見一郎氏の「嫌われる勇気」という本に出てくるもので、これが非常に興味深い。

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哲人(哲学者)と青年の対話形式でアルフレッド・アドラーの説く心理学の真理に迫るというもので、その考察が独特で読み入ってしまった。

「課題の分離」というのは、「自分の課題(やるべきこと)」と「他人の課題」を完全に分けること。一人で靴紐を結べない子どもに「ハイハイ、ママがしてあげるからね」と言って結んであげる行為は「他人の課題への介入」であり分離できていない状態である。昔、彼氏が買ってあげた服を着てくれない!と文句を言っている友人がいたが、その服を着るか着ないかは彼の問題であって、彼女が気にすることではないのである。これが「課題の分離」。まあとにかく面白いので読んでほしい。

 

母にこの話をすると、「ああ、それはわたしもお父さんもよく気をつけて子育てをしてたよ」と言っていた。うちは親が両方とも教育に携わる仕事をしているのでたまたまこういう知識があったのかもしれないが、思えば幼い頃から「なんかうちはほかのおうちと違う」という感覚がぼんやりとあった。

夫家に入ってから感じていた言いようのない違和感とストレスが、言葉で定義されることによって一気に「ガッテン!」となり、いくらか気持ちが楽になったように思う。

今は、変に思い悩まず「さっさとお金を貯めて夫と家を出る」という小さな、しかし非常に重大な目標にむけて無心でコツコツがんばるつもりだ。

 

今夜、義理の妹が日本へ着く。彼女にとってこの旅行の意味合いは、きっと「離れる」こと、そして「見ること」であろう。妹は22歳の今まで家を出たことがなく、料理をする、友達の家に泊まるなどのごく平凡な経験さえも親の方針により制限されてきた。夫に言わせれば「井の中のバケツの中の蛙」である。女の子ということもあり、制限は夫の何十倍も厳しかった様(本人談)。

しかし彼女は最近、殻を自ら破りはじめた。先々月は母親と大喧嘩をして家出をした。わたしは彼女の家出を「よし、いいぞいいぞ」などと呑気に楽しんでいたが、家はけっこうな大騒ぎだった。家庭で起き続けてきた「当たり前」に疑問を持ち始め、少しずつ視野が開け始めたのだ。パーフェクトなタイミングでの日本旅行というわけだ。いろんなものを見て体験し、成長してほしい。

 

明日からはおそらく、あっという間に時間がすぎるだろう。

一日一日を、しっかり噛みしめる。