寒国しろくまと夢のたび

カナディアン夫と暮らすトロント在住フォトグラファーの思考録

最近考えていること





最近考えていることがある。



ここ最近の自分がさっぱり冴えなくて嫌いだった。今は抜け出してめちゃくちゃハッピー!というわけではないものの、すこし俯瞰して自分を見られている分ほんの少しだが前進した気がする。自身のために文字に起こしてみる。
(今回ある心理学の本をもとに思考しているので読んでいない人にはなんのこっちゃらという感じだと思う。プラス、完全に自分の頭の整理のための記事なのでそこは悪しからず。)


「嫌われる勇気」に引き続き、「幸せになる勇気」を読んだ。アドラー心理学実践における現実的・具体的な疑問に答えつつ、その方針が提示してあった。
「嫌われる勇気」では、人へのアプローチの仕方について「人に対して、行為レベル(その人が何をしたか)ではなく存在レベル(その人がそこに存在していること)で感謝する」ということが述べてある。「幸せになる勇気」ではさらに人間関係構築の入り口は、尊敬であり、尊敬とはありのままにその人を見ることである」とある。


・尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。

・尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである。

・彼らが変化する保証はどこにもない。(中略)まず「あなた」がはじめなければならない。いっさいの条件をつけることなく、どんな結果が待っていようとも、最初の一歩を踏み出すのは「あなた」です。


これについては理解、納得はしたものの、実践できていない。というよりも、ある人物(仮にKとする)に対して実践を自ら放棄していた。日々、特に最近、わたしのKに対する嫌悪感は強まっていて、足音や声を聞くだけで反射的に嫌な気持ちになってしまう。本心を言えば、出来るだけ関わりたくないと思っている。今の状況下では関わりをゼロにはできないのだけど。

出会った当初はKの不幸な境遇を理解し、共感し、狂気的な行動等に対しても寛容であり続け、過度な干渉にもある程度応えて来た。出来ることならKが変われるようにサポートしたいと本気で思い、色々試した。


けれど今、人間関係の入り口であるはずの「尊敬」自体を放棄している。「存在レベルで感謝」していない。トライすらしていない。
仮に今わたしが教員として教壇に立ったとして、クラスの生徒全員をここでいう「尊敬」という態度をもって接する努力をするか、といえば、全力でする。その意志とエネルギーがある。わたしの働きかけによって、子どもたちが人生に立ち向かう勇気を獲得できる(可能性かある)のであれば、精一杯トライする。


結局のところ、わたしはその対象によって尊敬するか否かを変えていることになる(よろしくない)。目的論で言うと、「わたしはKと関係を構築したくないがために(目的)、尊敬という態度を放棄している」ということになる。目的はいつも先に来る。


わたしの疑問

:わたしは自分に多大なストレスや負荷がかかろうとも、相手が変わるかどうかが分からなくても、Kを含めすべての人を「尊敬」し、存在レベルで感謝出来るような努力を、本当にしなければならないのか。

:それとも、自身の今この瞬間の幸せを優先し、存在自体に嫌悪感を抱いてしまうような相手は思い切って自分の人生から距離を置き、無関係な場所で一緒にいて幸福だと思える人々と共に人生を歩めばいいのか。

:もしくは↑この2つのバランスを取って人と接するのか。 (バランスを取るのは難しい気がする)


もちろん、理想はいちばん上なんだろうけれど。人によって使い分けるものではないし、これを突破口にしてあらゆる他人と横の(対等な)関係を築くことが出来るようになるかもしれない。










これとはまた別に、承認欲求や貢献感について考えていた。

わたしはVISAの関係等でかれこれ2年近く仕事をしていない。職場というコミュニティを持っていない。夫の家で彼の家族と暮らしているが、この家族への所属感もあまりない。友人はいるけれど、 出かけて楽しむだけであまり深い話はしなかったり、留学生とは仲良くなっても結局いっとき経つと自国へ帰ってしまい、毎回寂しい思いをする。


仕事をしていないので時間は無限にある。本を読んで学びを得たり、写真を撮りに行ったり、何か小さな新しいことに挑戦してみたり。最初の1年くらいは楽しかったように思う。
しかし時間はあるけどお金はない状態が2年近く続いている今、精神状態がどうも不安定になって来ている。わたしはあまり感情的なタイプではなくて基本常に平穏なのだけれど、最近波が激しい。やらなければいけないことがすぐ出来ずに後回しにしたり、それに罪悪感を抱いたり、学びを得た後に意気込んで新しいことを始めても続かなかったり、ちょっとしたことで心が折れたりしている。
最近夫の出勤に合わせて早朝に弁当を作っているのだが、何度か寝坊して作りそびれ、ひもじい思いをさせた。そんな自分が嫌になって泣いた。自分でも驚いた。夫は怒らなかったし、「眠いよね、いつもありがとう」なんて言ってくれる時もあったのに、そんな優しい言葉も全く慰めにならずさらに泣くはめになった。


なんでそんなことになったのかと考えた時、ひとつは自身への劣等感があると思う。ここでわたしが感じている「劣等感」は、誰かと比較して自分が劣っている感覚というよりも、「理想の自分」に到達出来ていない現在の自分に対する劣っている感覚という方が正しい。無数の「わたしはこうなりたい」という欲望や目標、「理想のわたし」を掲げながら、それが達成できていないことに対する焦燥感や苛立ち。この無職期間にいろんな本を読み、いろんな人や生き方に出会い、「わたしは将来こんな風になりたい」「今すぐにでもこうしたい」というワクワクした気持ちが膨らんでなんでも出来るような気になった。小さな挑戦を繰り返してはやめ、繰り返してはやめ、その度に目の前に転がっている現実を目の当たりにし、そのギャップに落ち込んだ。


これはわたしが、他人以前にわたし自身を存在レベルで受容していない、ということである。つまり「普通であることの勇気」が足りていない。自分はここにいるだけで価値があり、誰かの役に立っている、と思えていない。今回身をもって気づいたことは、これは他人に承認されることで満たされるものではないということ。周りにはわたしを役立たずだと罵る人はいないし、夫は毎日「側にいてくれるだけで十分だ、ありがとう」と伝えてくれているのに、尚自分に価値を見出せないのはなぜか。それは、じぶんが誰かに貢献しているという感覚「貢献感」はわたし自身の主観によって得られるものであって、他人に承認されて満たされるものではないからであり、今現在わたしは自分が役に立ってないと思い込んでいるからである。



なんてこった。(書いていてびっくり)逆に言えばわたしが自分の存在価値を認めて、普通である勇気を持ち、いまここを一生懸命生きればいいのだ。だって幸運にも、わたしの大切な人たちはわたしに存在レベルで感謝してくれているんだから。あとはわたしが変わるだけということ。

さらに、人間の幸福=貢献感ということから言えば、 仕事ができないにせよ人に何か与えられることを始めるといいのかもしれない。今は理想ばかりでそれがきちんと形に出来てないから悶々としている状態なのだ。目に見えた形であってもいいし、なくてもいいのかもしれない。例えばわたしの特技のひとつは人の話を親身になって聞くことなので、それだけでも貢献感(幸福)には繋がる気がする。友達の話をカフェでただ聞いている→わたしは友達が自由に話してリラックスしたり、ストレスを解消したりする手助けをしている(貢献感)。というふうに。本当に、これはぜんぶ自分がどう意味づけするかですね。





こんなことについてあれこれ考えていた。人に言わせれば「そんなに深く考えなくても。」ということなんだろうけれど、わたしにとってこれは重要課題であり、おそらくまた作中の青年のように少しずつ前進しながら、その都度新しい悩みと向き合いながら、わたしなりに歩み続けるのだと思う。