寒国しろくまと夢のたび

カナディアン夫と暮らすトロント在住フォトグラファーの思考録

夫は5歳児かもしれない説。

Hello。

 

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トロントもすっかり暖かくなった。

先々週は桜を見に義妹と大きな公園へでかけ、アイスクリームを食べたり写真を撮ったりした。街を見渡せば人の往来が極端に増え、最近は半ズボンやタンクトップ姿の人もちらほら見る。家の冷蔵庫には気がつけばビールがこれでもかというくらい入っている。

 

春だ。

 

 

 

 

今年に入ってから仲良くなり、特に最近よく遊んでいるお友だちがいるのだが、彼女とは今までわたしが人とシェアしたことがなかったような分野の、しかもわりとディープなことを話せるのでとても面白い。

この一見よく分からないブログの題名も、彼女との会話の中で生まれた。

 

 

以前書いたけど、数年前から現在にかけてわたしは「自分と向き合う」ということを徹底的にやっている。どうしようもなく落ち込んだり壁にぶち当たる度にとにかく自分の気持ちとじっくり向き合うという作業を繰り返していて、振り返ればほぼ無意識的に役立つ情報をあらゆる分野からかき集めていた。それが心理学だったり、思考学、脳科学、哲学やスピリチュアル的な話であったりしたのだけれど、1人で黙々とやっていて特に周りに同じようなことに興味のある人がいなかったので、今こうして知識や経験を共有しながら考えを深め合える友人に恵まれたことがとても嬉しい。1人もいいけど、やっぱり話せる人がいるのはいいな〜と改めて思う。

 

 

 

 

 

結局のところ、いろんなものを削ぎ落としていけば人間の望みって「楽しく幸せに生きたい」って、根本的にはシンプルにただそれだけなんだろうと思う。わたしが悩んでもがいて日々わーーってしてるのも結局は苦しみを無くして毎日幸せに過ごしたいからで。みんなそうよねきっと。

 

 

 

で、そのためにわたしが兼ねてやっている作業の1つ「思い込み外し」というのに彼女も巻きこんだ。

私たちは生まれてから今まで、周りの大人にありとあらゆる価値観を植え付けらながら、そこで形成されたルールに従って生きている。それは親の考え方だったり、世間の常識だったりするんだけれど、それが私たちを生きづらくしているケースは多々ある。「思い込み外し」というのはその1つひとつに気づいて思い込みをなくしていく地道な作業。

 

 

例えばわたしは、小さい時に両親の方針でテレビゲームを買ってもらえず「ゲームは人間をダメにするもの」、「ゲームばかりしてるやつは堕落している」という価値観がいつのまにか形成されていた。そうして大人になり、結婚した。夫はゲームのあるお家で育ったので、暇があればストレス発散にゲームをしている。わたしは彼が平然とゲームを楽しんでいるのが我慢できず、「もっと有意義なことに時間を使ったら?」などと嫌味を言ってしまったり、いちいちその光景を見る度にイライラしたりしてしまっていた。

 

自分が自分に禁止していること(わたしの場合はテレビゲームをすること)を、他人が平然とやっているのを見ると、人は嫌悪感を覚える。彼が休みの日に朝までゲームをしていて激怒したこともあった。それくらい敏感だったし嫌だった。

 

 

ここで「ゲームはダメ」という考え方が、単に親から植えつけられた1つの概念に過ぎないことに気づく。これがファーストステップである。

 

それから、

 

「わたしもゲームをしていい」

「ゲームは人にいい影響を与えることもある」

「ゲームは楽しい」

「ゲームをしている時、彼は幸せだ」

 

というように、無理のない程度にポジティブなものに変換する。禁止を解いて、自分に「やってもいいよ」と許可する。そして同じ場面に出くわした時、この考え方を採用するよう努める。

 

 

そうすると、夫がゲームをしていても気にならなくなってくる。今はもう「楽しそうだね、何のゲーム?」とまで言えるようになった。夫も気兼ねなくストレス発散できるし、わたしも別に何とも思わないのでお互いにストレスフリーでハッピー。

変えるのは相手ではなく、自分の考え方の癖。夫は何も知らないので、わたしが勝手に実験しているだけなんだけど、これをいろんな場面で採用しだしてから夫婦仲が驚くほど変化し、幸せ度が一気に増した。

 

これはほんの一つの例に過ぎないけれど、思い込みと言うのは生活していると無数に見つけられる。見つけるポイントは、イライラや不安、恐怖など、何かネガティブな感情が湧いてきた時に「わたし今モヤモヤしているな」と気づくこと。それをヒントに「なんでこんなに心が揺さぶられるんだろう?」と自分に問う。掘り下げていくと、大なり小なり過去に形成された思い込みが見つかる。一個の問いで複数見つかることもある。思い込みが判明したら、それを「思わないようにする」のではなくて(そうするとまた自己否定に陥ったりするので)、「こういう風に思えたらもっと楽しい」という別の考え方を自分で用意し、その場面が来た時に頭の中でサッと変換できるようにする。これは繰り返すうちに自然とできるようになる。

 

つまりは世間の常識や今まで自分が過去の経験によって作り上げてきた価値観の中で、自分を苦しめるものはどんどん手放していこうということだ。

 

「痩せていて可愛くないと男性に愛されない」

「家事をやらない女はだらしないと思われる」

「クールな自分を演じなければ周りから尊敬されない」

 

こんなものはただの幻想である。

 

実際わたし自身、いろんなものを手放しシンプルに振舞いだしてからいろんなことがうまく回り出した。今までの人生の中でも、がちがちの頭が緩んで何かを手放した瞬間に「あ、これやりたい」と思い立ったりして、それを素直にやって結局うまくいくことが多かったな、と思う。

 

 

 

 

 

 

話が長引きました。

それでなんでこの題名やねんということですね。

思い込みがある人ほど、生きづらくなるねという話をその友人とする中で、わたしの夫の話になった。

 

思い込みが年齢や経験とともに洗脳的に形成されていくものだとするなら、生まれたばかりの赤ん坊は思い込みが全くない、ということになる。小さい子どもが危なっかしいのは、ある意味「これをしたらこんな悪いことが起こる」という概念がないので、なんでもかんでも本能のままにやろうとする。

 

 

友人はわたしの夫とも仲良くしてくれているのだが、彼の言動ついて改めてよく考えてみると、とにかく本能のまま、気持ちのおもむくままに生きているだけなのでは?181cm、100キロだけど、本当は5歳なのでは?という話になった。

 

 

彼はわたしと付き合いだした当初から、結婚したいと言い続けていた。付き合って数ヶ月の、国籍も育った環境も全く違うわたしに、何の疑いもなく「結婚」の2文字をぶつけられる理由が当時のわたしにはわからなかった。結婚するかもわからないのに仕事を辞め、大金はたいて日本に一緒について来た後も彼の態度は変わらなかった。

 

日本に住んで2ヶ月ほど経ったある日、急にキラキラした瞳で話があると言うので何かと思うと「僕は日本にカフェ&バーを作る」と言い出した。唐突すぎて驚いた。28年間カナダ人としてカナダで暮らし、日本語スキルもほぼゼロの状態。あの日からさらに2年ほど経っているけど、未だにその夢は変わっていない。

 

他にも思い当たる節が多々ある。貯金額がゼロでもレストランでは自分が一番食べたいものを食べるし、わたしが不機嫌でも子どもみたいにふざけて無邪気に笑っている。料理に夢中になると話しかけても無反応。家族や友人、わたしに対する見返りのない優しさ。

 

わたしがこれらの言動に対して「why?」と質問しても、答えは大体「さあね」か「だってそう思ったから」か「やりたかったから」である。それらしい理由はない。

わたしが質問したり悩みを相談したりすると、「考えすぎだよ」「大丈夫だって」などと言われる。「大丈夫じゃないから言ってるの!(怒)」と過去何度かなった。

 

 

こうして友人と1つひとつ遡って話をしているうちに、夫はただその瞬間の自分の感覚に従って行動しているだけ、つまりは5歳児なんだ!という結論に至る(以降会話中のあだ名は5歳児)。5歳児なので思い込みはない。何かをすることに恐怖もない。ただ根拠のない自信はものすごくある。ドラゴンボールの悟空とスラムダンクの桜木花道が今唐突に浮かんだ。強くなりたい。大切な人を守りたい。そこに理由はない。とにかくシンプルに生きている。そういうことなのだろうか。

 

よくよく考えると、2人のヒストリーの中で大半はわたしがひとりで勝手に悩み、考えすぎてどうしたらいいのかよく分からなくなって彼に相談し、「大丈夫だよ、心配するな」と言われてどうにか乗り越え、また悩み…の繰り返しだった気がする。完全にわたしの一人芝居であった。彼はただその時にできる彼のベストを尽くして、あとは自分の感覚に従ってやりたいことをやっていただけなのかもしれない。5歳児おそるべし。

 

 

 

 

 

 

彼がまっさらな5歳の少年だったことに気づいた後、でもそんな彼だからこそわたしと引き合って、今バランス良く夫婦仲良くうまくやれているのかもね、と話した。わたしは、今でこそこうして留学や国際結婚を経験してカナダでそれなりに暮らしていて、時折「行動力あるよね」「勇気あるよね」とか言われるけれど、小さい頃はとにかく慎重で人見知りな子どもだった。周りをただじっと観察して、目立った行動をしない子どもだった。今も正直ビビりで小心者なところは変わっていない。ただ前より少しだけ「なんとかなるさ」精神がついてきたな、とは思うけど。そういう自分の性格をどこかで分かっていて、自分にない部分を元々備えている人を選んだのかもしれないなと思った。逆に5歳児は危なっかしく熱中しやすい自分の傾向を無意識に理解していて、周りをよく見る慎重派なわたしを選んだのだろう。動物的感というのはほんとうにあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

なんじゃこりゃ、というまとまりのない感じになったが、話していて面白かったことのメモということで。とにかく楽しくやってます。

最近アフリカからようやく日本に帰ってきた高校時代の友人が、今秋トロントに来るとの連絡をもらった。しばらく連絡も取っていなかったし、会うとしても数年後に地元でだろうなとうっすら思っていたので驚いた。これもタイミングだな~と思う。そのあと弟たちも来るし。

 

楽しみだ。